廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

語りつつある言語と語られた言語

メルロ=ポンティのテクストの特徴について

・螺旋状に進みながら、同じ問題を拡張したり、深めたりする

→ 

  メリット:たんなる論証ではなく、「体験」を同時に深めながら思考を深めることができる

 

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前回コメントメモ

・「記憶の再構成とは見かけの大きさが作られることと同じ?」

・「かけがいのなさ」と「くみつくしがたい」記憶とは

・私の記憶のまなざしとは?

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あらゆる細部が含まれる一瞬のようなイメージ

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書経験の現象学と想起の現象学。ストーリーとの関係。夢は「ことば」を介しているか。

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濾過作業としての記憶

 

・・けっして忘れられないもののfécondité(豊饒性、多産性)

 

 

  1. 176 以下。主要テーマ:「話された言葉」と「話している言葉」

 

1)p. 178の段落の後半が難しい。

・言語は自分の働きそのものを隠す

・「盲人と麻痺患者のカップル」

・声であると同時に「こだま」である。

 

2) 二つの言語

・事後的で、習得され、記号となってしまった言葉

・表現の瞬間に形成、私を記号から意味へと滑り行かせる

 

読書は「火」がつく

マッチと乾いた木の例:「いやおうなしに似たものの応答を引き出す似たものの呼びかけ」

火がもえさかる

3)「私は同じ動作で、受け取りもし、与えもする」(次回?)

何を受け取り、何を与えるのか。

スタンダールの例(

 

 

シモンドン翻訳 Simondon

解決の探究のための指導的概念──形態、情報、ポテンシャルおよび準安定状態

 

 人間諸科学と心理学の一般理論が存在していないので、反省的思考は可能な公理化の条件を探究することを促されている。この作業は、必然的に発明的な要素がくわわることをともなうもので、たんなる総合の帰結ではありえない。この作業のためには、これまで使われてきた主要な概念体系を発掘しなければならないが、最近のものを特権視する必要もない。一九世紀の初頭の化学理論の発見は二〇年来規定されてきた原子論的図式を取り上げ直し、重みのある分析として貢献することによって、それを豊かなものにした。

 したがって同じように、〈形相=形態=形式〉と〈質料=素材=内容〉という〈二元論(Dyade)〉的原理ないしは〈範型〉的原理を呼び起こしたうえで、最近の〈ゲシュタルト心理学〉の説明モデルとつき合わせ、さらには〈サイバネティクス〉や〈情報理論〉ともつき合わせることで、たとえばポテンシャルといった、物理科学から借用された概念にも依拠するところまで進むことができるだろう。私たちが示したいのは、人間諸科学あるいは少なくとも心理学の公理論的な素描が可能なのは、形態、情報、ポテンシャルという三つの概念を同時に理解しようとすることによってだということだ。ただしその場合、それらを繋げ、内的に組織するために、形態、情報、ポテンシャルが問題になるときに現れてくる特別なタイプの作用(opération)を定義することも必要である。すなわち変換器的作用(l’OPERATION TRANSDUCTIVE)という作用である。

 

transduction

 3  (1969, cit. 3 infra). Techn. Mode d'action d'un transducteur (1.). Par extension :

 3  Or, dans un transducteur parfait, aucune énergie n'est actualisée; aucune non plus n'est mise en réserve : le transducteur ne fait partie ni du domaine de l'énergie potentielle, ni du domaine de l'énergie actuelle : il est véritablement le médiateur entre ces deux domaines (…) C'est au cours de ce passage du potentiel à l'actuel qu'intervient l'information; l'information est condition d'actualisation.
Or, cette notion de transduction peut être généralisée. Présentée à l'état pur dans les transducteurs de différentes espèces, elle existe comme fonction régulatrice dans toutes les machines qui possèdent une certaine marge d'indétermination localisée dans leur fonctionnement. L'être humain, et le vivant plus généralement, sont essentiellement des transducteurs. Le vivant élémentaire, l'animal, est en lui-même un transducteur. 

Gilbert Simondon, Du mode d'existence des objets techniques, p. 143.

(Gramd Robertより)

変換器の作動様式。

「さて、完全な変換器においては、少しのエネルギーも現勢化されない。保存されるエネルギーもない。変換器は潜在的(ポテンシャル)エネルギーの領域の一部でも、現勢的なエネルギーの領域の一部でもない。それはまさにこれら二つの領域の中継者なのだ。そしてこの変換作用の概念は一般化できる。さまざまな種類の変換器においては純粋状態で示されるが、それはあらゆる機械で統整的な機能として存在している。ただしその機械は、その機能において位置付けられるような、ある種の非決定性の余地をもっていなければならない。人間存在、そしてより一般的に生体は本質的には変換器である。基本的な生体や動物もそれ自体で変換器である。」

 

同書transductif の項

 C'est de la réalité technique concrétisée que transporte l'élément, tandis que l'individu et l'ensemble contiennent cette réalité technique sans pouvoir la véhiculer et la transmettre; ils ne peuvent que produire ou se conserver mais non transmettre; les éléments ont une propriété transductive qui fait d'eux les vrais porteurs de la technicité, comme les graines qui véhiculent les propriétés de l'espèce et vont refaire des individus nouveaux.

Gilbert Simondon, Du mode d'existence des objets techniques, p. 73

 

訳注

opération:

メルロ=ポンティの「作動的志向性」(intentionnalité opérante)が想起される、主体と客体を媒介する自生的・媒介的働きを意味するので、「作動」「作用」と訳される。

メルロ=ポンティ「表現の科学と表現の経験」(1)

 

表現の科学と表現の経験(1)

問い:

・本を読んで何かを学ぶ、経験するということはどういうことか。

・これは視覚世界と共通点がないか。本で風景を「見る」「記憶する」

・本の記憶について。幼年時代の記憶や、他人といた記憶

 

1)本に没頭すると、「どんな視角から、どんなパースペクティヴから読んでいるかわからない」(176)

 

素朴な知覚においても、ある人を見るとき、視点や距離は関係がない。

見かけの大きさは「作られる」=奥行がない世界。

遠い物と近いものには「同じ尺度」がないのに、遠近法はそれをひとつの平面に押し込めてしまう。

メルロ=ポンティ=大きさとは、そこに「住み込む意味」である。

 

読書とその記憶

一般論:記憶は「保存」なのか「再構成」なのか?

 

本のばあい、ある作品はひとつの塊(ブロック)として想起される。幼年時代の記憶のように。

 

・「かけがえのない(singulier)」と同時に「くみつくしがたい」(inépuisable)であるもの。

 

会話の例。本当に会話らしい会話はどのようなものか。

「私はそれをまだ物のように手に握っている」(177)

「私の記憶のまなざしがそれを包んでいる」(177)

出来事の中にふたたび身を置く。

 

→ 「言語は、みずからの働きそのものによってわれわれの眼から隠れる」(178)

先端文化学研究VI (廣瀬浩司)

先端文化学研究VI

廣瀬浩司

 

  • 授業の主旨:

ことば(parole)とは何か。本授業では、

1)たんに記号として何かを指し示すもの。メッセージを伝達する道具。

2)論理的な思考体系(普遍文法)がどこかにあって、言語はそれを経験的世界において再現しようとするもの

この二つにはあてはまらないような言語のありかたを、模索してみたい。

 

方法としては、なるべくミクロな(具体的・経験的・偶然的・部分的)言語活動から出発して、それこそがむしろ普遍的なもの、永遠的なものにつながることを考えてみたい。

 

  • 基礎テクスト:

メルロ=ポンティ『世界の散文』の「表現の科学と表現の経験」の冒頭の具体例から始める

 

やり方

・テクストはゆっくり読み進め、細部も読み落とさないようにする。

・毎週範囲を指定し、あらかじめ読んできてもらう。

・それに基づいて教員が問題を提起し、できれば授業では議論もまじえていきたい。授業での発言の苦手な人はコメントペーパーへ。

 

内容としては

 ・テクストのポイントはどこか

 ・難解な部分についての解釈の議論

 ・他の場面に応用できるような議論はないか(とくにこれを奨励)

 

・最後にコメントペーパー。

・数回(3-5回)読み進めた後に議論を整理するため、授業時間を使って小レポートを書いてもらう(長いコメントペーパーと思ってよい)

・それらを踏まえ期末レポートを練り上げていく。

 

評価:

・出席はとります

・議論あるいはコメントペーパーにより、あらかじめテクストを読んで深く考えているかを評価

・小レポート

・期末レポート

 

小レポートは、議論のまとまりごとにおこないますが、あらかじめ「いつ」と指定はせず、1-2週間目に予告します。重要な評価となるので、忘れたり、準備し損なったりしないよう気をつけてください。Manabaにも掲示するつもりですが、口頭の指示を優先します。

はじめのテクスト

モーリス・メルロ=ポンティ『世界の散文』みすず書房、p. 25以下一〇頁ほど。

授業では『言語の現象学メルロ=ポンティコレクション5、p. 176以下を配布します。

問題のあらすじ

・読書とはなにか,から出発して、真のコミュニケーションとは、真に言葉らしい言葉とは、他者との関係とは、まで徹底的に考える。

・見えるものと読まれるものの共通点と差異

・他者との真の会話、コミュニケーションとは?

・「話された言語(語られた言語)と話している言語(語る言語)」(179)

先端文化学演習II: 『眼と精神』イントロダクション

テクスト

メルロ=ポンティ(1908-1961)『眼と精神』第4節を精読する。今学期はとくに、用語などの次元でも深く読み込めるようにする。

 

フランスの現象学者。心理学、精神病理学言語学、人類学、政治哲学などとすりあわせつつ、身体と知覚から出発する独自の現象学を練り上げる。

また作家や画家などの営みと哲学を密接に重ね合わせたことでも有名。

 『眼と精神』は1960年に彼が公刊した最後の論文。当時彼は『見えるものと見えないもの』という大著を準備中で、哲学をデカルト以降の根本からやり直そうとしていたが、急死により未完。謎めいたところもあるこれらの著作は、デリダドゥルーズフーコー、リオタールらのいわゆるポストモダン哲学、ディディ=ユベルマンらの美術理論、インゴルドらの人類学、臨床哲学看護学認知心理学脳科学などなどに多方面な影響を与えたが、その思想はまだくみつくされていない。

 

  • 読解、発展のためのいくつかの補助線

芸術論・表現論として

・遠近法により3次元の「錯覚(illusion)」を与える古典芸術にたいして、セザンヌジャコメッティロダンマティス、ドローネ、そしてとくにクレーがどのように新たな時空間を切り開いたか

・この試みは、新たな哲学、存在論を予告する。

・以後の現代芸術に息づくメルロ=ポンティ

― 鑑賞者の身体を含めた場の創出(VRではなく)

― 視覚や感覚の運動性(映画以後の藝術)

― 触覚などの復権

― 野生の存在、なまの意味など(アール・ブリュット、児童画、プリミティヴィズム、アートセラピー・・・)

― 他者との、身体的・感覚的な共同性(間身体性、間主観性

 

哲学として

・見えないもの、現れないものの現象学。見えないものとはたんに見えるものに隠されたもの、否定されたもの、抑圧されたものではなく、見えるものの現れそのものと「混じり合い」「それをひそかに織りなす」もの。

→ 同じように「語りえぬもの」を語る試みもある。言語に混じり合った「沈黙の糸」

・画家のような孤独な試みがどのようにpublicなものになるか。

個人的なもの、偶然的なものが普遍的なものに開かれる。

「側面的普遍」「概念なき普遍」

・他者たちとの関係。自分と共存しうるような他者たち(観客)を創り出すものとしての作品。

 

  • その他

「なまの存在」を語りつつメルロ=ポンティが新しい歴史論を模索していたこと。

たんなる出来事の羅列でもなく、ヘーゲル的歴史でもない、<未来と過去が、現在において共鳴するような歴史>

 

・見るものであると同時に見えるものである身体

・物のただなかから生まれる視覚

・世界は身体と同じ生地でおられている

・身体は外部を迎え入れる

・鏡と絵画

・存在の裂開

・「問いかけ(interrogation)」という方法

 

参考資料(プリント)

本郷均「『眼と精神』――晩年の存在論に至る思考の深化」、『メルロ=ポンティ読本』法政大学出版局所収。

オルガンとダンス。あるいは習慣論の脱構築

「オルガンとダンス」(『知覚の現象学』p. 243-
メルロ=ポンティは「身体図式」の更新の思想家ではない。

習慣について、オルガン奏者の例で考え直す。
・オルガン奏者が、ひとの楽器で、短い練習で弾けてしまうこと。
―反射説(機械論)の批判
―分析説(観念論。頭のなかに鍵盤の表象がある)の批判
音楽的本質と音楽の直接的関係。身体と楽器がその通過点
「音楽はそれ自体で存在し、音楽によってこそそのたの一切のものも存在する」(244)。注(2)も熟読。
問:「表出(表現)空間が創造されるにあたって、どのようなことが起きているか整理してみる」

身体
「身体はむしろ他の一切の表出空間の根源であり、表出の運動そのものであり、それによってはじめて意味がひとつの場所をあたえられて外部に投射され、意味がわたしたちの手元に、私たちの眼下に物としてそんざいしはじめるようになる」(245)
→ 文化的な運動習慣としてのダンスが創出する「新しい意味の核」→ 道具を構成。
「身体がひとつの新しい意味によって浸透されたとき、身体がひとつの新しい意味の核を同化したとき、(・・・)習慣が獲得された、と言われるのである」

このばあい「意味」とはどういう意味だろうか(246)
・偶然性に結び付いている
・「形式」によって強いられない内容に属する
・身体、現実に存在し、病気に冒されやすいが、一般的な意味の核ともなる(本質と存在の区別にあてはまらない)

野生の存在に出会うために(未完)

野生の存在に出会うために(未完)
比較文化学類教員 廣瀬浩司

1. 透視画法的認識の解体とは
 「我々には、子どもの時間やその早さを、我々の時間や我々の空間などを未分化(indifférentiation)にしたものとして理解する権利があるのだろうか」 ──あるところで晩年のメルロ=ポンティは自問している。子どもの経験を否定的にではなく、肯定的に考えることこそが、現象学の務めだというのだ。それではたとえば児童画について、どうしたらその「積極的達成」 を語ることができるのだろうか。
 そのためにはまず、「我々」が自明なもの、あるいはもっとも「客観的な」ものと考える透視画法的な認識の自明さを「括弧に入れる」必要がある。そうでなければ、幼児のデッサンは、透視画法に至る過程としてのみ観察されてしまうからである。
 ここで重要なのは、このような自明さを括弧に入れるためには、透視画法的な認識を否定するだけではなく、その内的なメカニズムを解明し、その「客観性」の動機を明らかにする必要があるということだ。メルロ=ポンティによれば、透視画法の客観性は、「逆説」にも見える事態に基づいている。それは「一つの視点から」見られた世界を表現していると同時に、それが「万人にとって妥当する」(EDE, 121)ものとして描き出されているということである。
 これは以下のような手続きによってなされる。まず透視画法は、世界の現象を「系統的に」「変形」し、「主観性にある原理的な満足を与える」(EDE, 121)。ひとはそれを自分がある一点から見ている像であるかのように思い、満足するのである。だが第二に、それが「客観的なもの」として現れるためには、この「変形」の規則が、暗黙のうちに画面のすべての部分において、妥当することが前提されていなければならない。さらに言うならば、我々が生きている空間そのものが、そのような規則によって律しられていることが前提されていなければならない。空間がすでに透視画法的に「理念化」(フッサール)されているからこそ、一点からの眺望が、客観的に妥当するものとして現れてくるのである。このことをメルロ=ポンティは以下のようにまとめている。

それが私に与えてくれるのは、世界についての人間の見方ではなく、有限性にあずかることのない神が人間の見方についてもちうる認識なのである(EDE, 122)。

ここで神と呼ばれているのは、けっしてひとつの視点に拘束されず、あらゆる空間と時間に遍在することができるような無限に無限なる存在のことである。透視画法の「逆説」は、この神の認識を直接表現するのではなく、世界に身体をもって受肉している「人間についてもちうる認識」として、表現することにある。こうして透視画法の「客観性」の根拠がある。それは「無限に無限なる」存在と有限な人間の視点の交差する場に成立するのである。
 世界についての「情報」をもっとも科学的に表現するとされている透視画法が、このように無限に無限なる存在との関係を前提としているとするならば、いわゆる近代科学の前提する「客観的な時空間」そのものも、こうした存在を前提とすると考えることができるだろう。このような客観的・科学的な認識は普遍的なものではなく、ある種の(歴史的な)「決心」(EDE, 121)に基づいていること、このことを透視画法の見かけ上の客観性は示しているのである。
 だがこれはあくまでひとつの選択にすぎない。では他にどのような選択がありうるのだろうか。そのことを示しているのが児童画や先史時代の絵画であり、そして透視画法とは異なる表現を模索した、セザンヌ以降の絵画なのである。(ここまでで1400字程度)

2. 児童画のロゴス
 しかしながらメルロ=ポンティはここでは、児童画について、具体的な分析を詳細には展開おらず、リュケの『子どものデッサン』に批判的に言及しているだけである。そこで本論では、メルロ=ポンティと同じように、未熟な透視画法としてではなく、児童画そのものの「積極的な達成」を論じている、鬼丸吉弘の『児童画のロゴス』を参照してみよう。
(『児童画のロゴス』まとめ)
興味深いのは「殴り書き」から「表出期」への移行である。
・円の発見:無ではなく、ナニモノカがあるという発見。「対象」から主体への働きかけ
・直線の発見:方向感覚の発見、重力の発見。
子どもが白紙に「しるし」をつけようとする過程において、無ではない何ものかの出現に出会うこと(偶然性)、そこで自分の身体を貫く空間の方位性に気づくこと(運命)この何ものかをみずから描き出す可能性に気づくこと(自由)
頭足人間;何ものかが「誰か」になる、という経験。生命的なものの芽生え。その運動性(手足)。

3. 世界との遭遇の証言としての児童画
 以上を踏まえ、メルロ=ポンティのテクストに戻る。
・有限な身体をもった存在が、みずからの運動によって、外部に「しるし」を残すこと
・これは外界との出会いの「証言」であって、「情報収集」や「情報処理」ではない。感情の震えを痕跡として残すことである。
・これは言語以前の言語以前の言語であり、コミュニケーションのための言語よりも雄弁であるともいえる。なぜならそれは、物との根源的な出会いの遭遇であり、いまだ構造化されない世界全体との出会いの証言でもあるからだ(超客観性、超意味)。
・私たちがもしこのような「言語」をふたたび語ろうとするならば、透視画法と格闘したセザンヌ以降の絵画のような労苦が必要である。一見逆説的なことながら、「野生」の存在は、獲得されるべきもので、たんに文化以前に帰ることではない。

4. まとめ
・児童画の研究は、児童の発達段階の類型化のためではなく、それじたい「野生の表現」の発掘でなくてはならない。
・幼児が円を描くのも、成人が「リアル」に何かを描くのも、世界との接触の異なった「スタイル」の表現にすぎない。
・同様の発掘は、現代絵画の歴史そのものでもある→ 現代絵画や芸術の例を挙げる?



○ここに他の方向への展望をはさんでもよい。
1)フーコーメルロ=ポンティ
 ミシェル・フーコーメルロ=ポンティに深い影響を受け、近代的な「表象」と獲得し続けた、『言葉と物』における「表象の表象」(冒頭のベラスケス分析)論がそれである。また『監獄の誕生』におけるいわゆる「パノプティコン」の分析も、メルロ=ポンティの透視画法論と深く通底する。
 重要なのは、メルロ=ポンティフーコーも、表象(古典主義、近代の認識、科学、権力諸関係、新自由主義)をたんに否定するのではなく、その意味構造を解剖し、「べつのかたちの思考」を、現代芸術をヒントに模索したことである。
2)児童画の表出は、無意識の空間や文学、夢の時空間、神話的時空間と比較可能。ただしメルロ=ポンティは「無意識は意識の背後にあるのではなく、前にある」と言う。無意識は、意識をあやつるもう一つの思考ではなく、むしろ感覚的な時空間そのものの内にひそかに眠っていると彼は考えるのだ。
3) 時間の問題。「現在はまだ過去にふれ、過去を手中に保持し、過去と奇妙な具合に共存しているのであって、絵物語の省略だけが、その未来へ向かってその現在をまたぎ越してゆく歴史のこの運動を表現しうるのである。」(EDE, 124)→ 幻影肢との関係、神話的時間、夢の時間性)
4)「幼児の対人関係」との関係。幼児が表出する「像」(なにかあるもの)と、自己像とは深いところで連関していないか。「他者になにかを表現すること」と「自己を表現すること」との連関。