廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学演習II

今日の問い 1)「物は、(…)いわば、ひそかに、内部から照らし出されているのであって、光がそれから発している。そして、このために堅固さと物質性という印象が生ずるのである」(14) 2)セザンヌのパラドックス。「感覚を離れ去ることなく、直接的な印…

せザンヌの懐疑2

今日の問い 1)「物は、(…)いわば、ひそかに、内部から照らし出されているのであって、光がそれから発している。そして、このために堅固さと物質性という印象が生ずるのである」(14) 2)セザンヌのパラドックス。「感覚を離れ去ることなく、直接的な印…

先端文化学演習II

まえがき 芸術作品について語ることは、芸術を「イラスト」にして自分について語ることではない。「芸術の鑑賞は自由だ」と考える人も多いが、そういう人にかぎって、出て来る言葉は画一的である。この画一性を壊すためには、「感性的なもののロゴス(言語、…

レヴィナスからデリダへ、デリダからレヴィナスへ

小レポートより ・「顔」とインターネットについて→ デリダ。「他者を受け入れる」ことにおける「公共空間」と「私的空間」の関係の混乱 ・障害と他者の身体感覚 ・障害と「共苦」の問題 ・自画像と鏡 ・食べること:「イリヤ」と「自他意識」 ・享受によっ…

レヴィナス 1

○ 生活世界(Lebenswelt)cf. フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(中公文庫) ――――――― エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas)(1906-1995)リトアニア生まれ、フランスストラスブールに学ぶ。初期のフッサール研究『フッサール現象…

写真と絵画

1-4についてのコメントより ・写真は人間の目に近い機能を持ち、人間の認識能力に近いものか ・写真を見るとき、写真の中に写る物をイメージ化して、それを写真自体と同一化する。写真そのものは純粋に見ない → そもそも私たちが何かあるものを見るとき、パ…

文化科学領域入門演習

ロラン・バルト『明るい部屋』1-4 I. 議論の流れ: 問い:「写真」とは〈それ自体〉なんであるのか。= 写真をほかの芸術と区別するものは何か(p. 7)。問いに答えるための手がかりとその困難 1) 従来の分類は写真の本質とは無関係。写真の「新しさ」を示し…

科学文化論IIA

科学文化論 IIA 一九五〇年代のメルロ=ポンティ:『コレージュ・ド・フランス講義要録(Résumés de cours1952-1960)』読解をとおして1945年の『知覚の現象学』以後、サルトルとともに『現代(Les Temps Modernes)』で活躍していたメルロ=ポンティは、195…

先端文化学研究5 0417 小銭で現象学!

現象学を「小銭で」実践する!「現象学」は二〇世紀初頭にドイツのフッサールによって切り開かれた学問であるが、その後ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、デリダ、レヴィナス、アーレントなどによって引き継がれるとともに、その応用範囲は飛躍的に…

『感覚の論理』まとめに向けて 2

コメントより 「ベーコンの叫びによる脱出は、万人に共通する感覚を見つける行為なのではないか」 ・感覚的なものの間主観性 ・他者の感覚の経験可能性。 → 画家の営みに注目することは、このような感覚の普遍性のみを画家が追求したからではないか。 メルロ…

『感覚の論理』まとめに向けて

コメントより ・「観念」はどのようなものとしてあるのか? ・痕跡(マーク)と手のたえざる車輪。画家ではない私たちはどう認識し、どう選択すべきか=身体的な次元の働きを、言語、社会へとどう応用できるか。 ・偶然性はすでにあるものなのか。。。。 ー…

ドゥルーズ『感覚の論理』と「偶然性」

コメントより ・「眼に見える見せ物(spectacle:光景)」を「感覚不可能な(insensible)な力が攪乱する(84)。→ 眼に見えない力を捕獲し、検出する。Spectale とforces insensiblesが対立。 ・紋切り型から出て行くことと「伝達」 偶然性について(125-)ポイ…

三つの自己の技法:書簡、良心の検討、アスケーシス、夢解釈

・三つの自己の技法:書簡、良心の検討、アスケーシス、夢解釈ーーー ・アスケーシス: 自己放棄やその現実の放棄ではなく、世界の現実を、此岸において獲得すること→ 獲得した真理を永続的な原理に変換 →準備したもの(パラスケウエー)を試練にかける → エ…

ドゥルーズ『感覚の論理』8, 11/レポートに向けての問い

8 力を描くこと(補足) ・人が叫ぶのは、いつも不可視の、感覚不可能な(insensible)な諸力に襲われてのことであり、そういう諸力は見せ物を攪乱し、苦痛や感覚さえも逸脱する」(84) ・ベルクは叫びの音響を、音響的でない力との関係に導いている ・イ…

「自己の技法」IIIメモ

1 プルタルコスの「傾聴」:従属ではなく、「ロゴスを集める姿勢(posture)」にあること→修道院を経て、教育学へ2 問答法の消滅。 ピタゴラスと記憶術。魂の浄化のための良心の検討3 セネカの自己検討 ・「行ったことが、行いたかったことにどれだけ適合…

ドゥルーズ『感覚の論理』問題提起

7の追加 ・感覚が、水準の差異をともない、ある水準から別の水準へ移るのはどうしてか(69-70) 器官なき身体:器官がない=多価的な未規定な(plurivoque et indéterminé)諸器官=時間的移行的(transitoire)な諸器官こうした諸器官は「覚遊病者」のよう…

ドゥルーズ『感覚の論理』7−8

ドゥルーズ『感覚の論理』7−8 7の追加 ・感覚が、水準の差異をともない、ある水準から別の水準へ移るのはどうしてか(69-70) 器官なき身体:器官がない=多価的な未規定な(plurivoque et indéterminé)諸器官=時間的移行的(transitoire)な諸器官こう…

器官なき身体をめぐるつぶやき

器官なき身体は、光を触知しながら、「下へ上り」、「上へ落ち」ながら、呼気と吸気のリズム(収縮と拡散)を響かせる金属的存在だ、と勝手に展開。。。しかしそれを「時間性」ないしは、そこから時間性が湧出する無時間性と考えるためには、なんらかの反省…

自己への気づかいのために

フーコーとともに自己への気遣いを問うとしたら、以下のことを念頭においておくこと1)その気遣いが、「自己認識」とは異なって、どのような自己の変容へと促すものなのか。それが自己が置かれている場そのものの変容をもたらすこと。その場がどのような様…

フーコーの可能性をつぶすいくつかの方法

私はフーコー主義者ではないが、それゆえにフーコーの可能性をつぶすさまざまな言説が気になる。1)初期のフーコーは完全にメルロ=ポンティの「コピー」とでもいうべき立場であった(ビンスワンガー序文、ゲシュタルトクライス、精神医学とパーソナリティ…

先端文化学研究6

コメントより注目点 ・隔離のための輪郭が「多数化する能力をもっている」 感覚の水準の移行→ 「歪形(デフォルメ)」をつかさどる、身体の歪形の動員 ・Figureは「全」が規定する(「全」に通ずる)感覚の形体となる。 個対他の対立ではなく、そのフレーム…

先端文化学研究6:ドゥルーズ(3)

コメントより ・人間性(データ性)排除→個人に関するデータを越えた人間に共通する感覚 ・Figureの消滅の理由 ・土方巽:自閉と解放の間で揺れ動く身体。 ・緊張と収縮。「私自身を捉えて、私自身のなかに閉じこもる世界、世界にみずからを開き、みずからも…

先端文化学研究6:ドゥルーズ:(1)−2

コメントより ・触覚的視覚(haptisch/haptic):2次元的絵画の限界に挑む ・Figureによって具象的・説明的・説話的なものを追い払うこと 何かを説明することを避ける ・「動物になること(devenir-animal)」と動物の神聖化 ・ベーコンの身体は「何か」に吸…

先端文化学研究6:ドゥルーズ『感覚の論理』2

コメントより ・感情なき感覚(痛み、先日)や説明なき行動 ・ひとつひとつの表現は何を意味しているのか→何も意味していない、でよいか。 ・その場からその場への脱走、カオスからfigureになろうとする努力。自分の身体から逃げられないという葛藤。 ・顔を…

先端文化学研究6:ドゥルーズ『感覚の論理』(1)

基本的な問題 1)ベーコン=ドゥルーズのいうFigureは、たんなる「形」「形式」「形態」とどのように違うのか。Figureとその背景の関係は?輪郭は? 2)ベーコンにとって絵画とは、主観的なイメージでも、何かあるものを指し示すイラストでも、物語でもな…

先端文化学研究6:ドゥルーズ『感覚の論理』イントロ

メルロ=ポンティのばあい ・「感性的な世界」と「文化的な世界」の関係という問題 ・それを芸術を媒介に考える(絵画における奥行きや運動表現、彫刻の身体表現、映画など) 何が問題なのか ・感性的な世界はたんなる「カオス」や「刺激」ではなく、自己組織…

メルロ=ポンティと無意識

メルロ=ポンティにおける欲望(欲動)の問題について考えるにあたって最低限おさえておきたいこと1)リオタールのDicoours, Figursの痛々しいまでのメルロ=ポンティ乗り越えの作業の痕跡、 それにたいするドゥルーズのあまりにも断定的な批判の妥当性 2)…

風景の痛さ

奥行きは身体を包み込む、もっと遠くへ、と身体を誘い込む深淵である。過去の強い情動を取り上げ直し、さらに前に進めと命じる風景である。そんな残酷なものがあろうか。サルトルの、ペシミズムを装ったオプティミズム。メルロ=ポンティの、生命の豊饒さとオ…

河本英夫「障害の傍らを通り過ぎる」、『現代思想』(青土社)、vol. 38-12, 2010年10月号。

河本英夫「障害の傍らを通り過ぎる」、『現代思想』(青土社)、vol. 38-12, 2010年10月号。・「障害を生きることの底なしの深さ」(174)。 距離のなさ(自己触発)(cf. 時間意識)。 距離のなさにおける気づき(awareness)。行為のさなかでみずからに出…

木村敏論のためのメモ2:時は流れず

氏の思想である意味もっとも現象学的であるのは「タイミングと自己」という論文である。そこで彼は、時間を三つの位相に分ける。ひとつは「父母未生の生」という時間以前の時間。これは形而上学的前提というよりは、現象学的な記述が深まるにつれて、「なか…