廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

滞留

ハイデガーは、「死に向かう存在」について語り、それは自己に「本来的」で、固有の不可能性であるという。つまり他者の生はけっして経験できない、というのがハイデガーの立場である。⇒ デリダの操作。(1)「死の瞬間」は分割可能ではないか。(2)その分割された瞬間に、他者との関係があるのではないか。
ブランショにとって、死の瞬間とは「つねにすでに過ぎ去ったものの切迫」=到来しようとするものと到来したものの出会い、であると言う。
歓喜:不可能なもの、経験不可能なものの「経験」
・有限性の分かち合い。
cf. 「不可能な喪」。喪の経験は、失われた他者へ充当されたエネルギーを自己に取り戻す運動である。しかしデリダはこの円環を中断させ、他者が他者として自己の内にとどまり続ける経験に立ち止まる。喪の不可能性に立ち止まるのだ。そのとき自己の内なる他者は、いわば「代補」や「パレルゴン」のように、捉えがたいものである。それを彼は「亡霊的」という。亡霊的とは、現前するのでも、単純に不在でもないけれど、私自身をどこからか見ているような存在である。そもそもこのような亡霊的なものが先にあって、「自己」もあるのかもしれない。そしてデリダは、このような他者に応答する可能性=責任について語る。ふつうは責任とは、アイデンティティを持った「主体」が、ある道徳法則に則って行為することである。だがデリダにとって、こうした主体よりも、亡霊的な他者との関係のほうが(論理的に)先なのであり、責任とはそれに遅れて応答することの可能性であり、そうして「他者」の声で決断することなのである。

(以下は既出「歓待」)