廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

バルト「芸術、この古きもの。。。」四月二八日ぶん

第二断章(pp. 142-143):「ポップ・アートの二つの顚倒」
・価値の顚倒
・ (「クロヴィス・コンプレックス」。クロヴィス(466-511)はフランク族の王。キリスト教徒である妻の影響で、戦いに勝利したのちに、ランスの司教聖レミの洗礼を受け、キリスト教に改宗(496)。今日のフランスの原形を作る(『キリスト教大事典』)。)
ロラン・バルトはこの顚倒を二つの逆転として説明する。
1) 写真と絵画の関係の逆転:芸術絵画でも芸術写真でもない、名づけようのない混淆物⇒ 
・ コメント:たんに貶められた写真を絵画より優位に置くことが問題ではない。両者が混淆するような第三のものを創り出すことである。
・ 問い:それが「名づけようもない」としたら、いったいどのようなものとして現れているのだろうか。力?無意味なもの?奥行という見えないものの現れ?

2)コピーの復権
写し絵(imagerie。大衆向けの版画シリーズなど)であることを引き受ける=アメリカ的環境の平板な反映によって構成された似姿の集積。
・ コメント:ここでもバルトは、たんにオリジナルよりコピーがすばらしいと言っているのではない。むしろ新しい技法が芸術の概念そのものを修正することに注目しており、これが「正常な歴史的推力」であるとさえ言っている。(cf. ポール・ヴァレリ。フランス20世紀初頭の詩人、批評家。
・ 問い:たとえば19世紀後半にも写真と絵画は上記のような緊張関係にあった。同じように、コピー文化とオリジナル文化との間にも「名づけようもない混淆」が生じているのではないか。

まとめ:ロラン・バルトは、ポップ・アートの「価値の顚倒」をたんにプラスをマイナスにするようなものとは考えていない。むしろ両者のどちらでもないような、第三の混合体を探し求めようとしており、芸術はつねにそうだったと考えているように見える。
参考:デリダ脱構築の方法。文字言語に対して、音声言語が優位と考えられていた西欧形而上学の伝統 ⇒ デリダもこれをたんにひっくり返すのではなく、「見えない傷」のようなものとして、「原エクリチュール」というものを語っている。原エクリチュールは、隠されながらひそかに働いている力のようなもので、私たちにはその「消去の痕跡」だけが現れてくるという。このことをバルトに投げ返してみると、「原—写真的なもの」「原—コピー的なもの」のひそかな働きが重要になってくるのではないだろうか。
第三断章「繰り返し(反復)」について。
・繰り返し:大衆文化、非ヨーロッパ文化においては、意味と悦楽の根拠。
アンディ・ウォーホルの反復の意味:たんなる芸術の破壊であると同時に人間主体の新たな構成でもある。
・この新たな人間主体について、バルトは2つの特徴を指摘する。
(1)人間主体の構成とは、新たな時間性に道を開くこと。
新しいことの排除を嘆くのではなく、「時間の悲劇性(pathétique)」(あるものが出現し、死に、それを乗り越えるために新たなものを創造する)を廃棄する。作品に「誕生-生—死」という運命を与える。
↔ popにとっては、「事物が完成されていること=有限であること(fini)」が重要で、それを「終えること(finir/finish)」は重要でない⇒「終わりのないこと(sans fin/without end)」の退屈さを忘れること。
コメント:popが開く新しい時間性は、アリストテレスが『詩学』で述べたカタルシス(浄化)理論と対立する。アリストテレスによれば、カタルシスとは悲劇が人間に与える効用で、その要素として「パトス」(苦難、苦痛)がある(平凡社『哲学事典』)。
 それに対して、popはアリストテレスのようなカタルシスも、弁証法的な止揚(誕生—生—死)とも無関係であり「有限でありながら、かぎりなく反復される」という新しい時間性を開いている。
問い:バルトによれば、popの反復は同じものの反復であるばかりではなく、有限でその都度完結しているが、ずれるようにして際限なく繰り返されるもの。これは古典的な有限と無限の対立を越えた画像を形作る(伝統的な遠近法絵画は無限の彼方へと開かれている)。

(2)繰り返しは新たな「分身」を出現させる⇒ 不吉でもなく、道徳的でもなく、背後にいるものでもない⇒ 平板で、気の抜けた、非宗教的な分身
コメント:分身の主題についてフロイトは「無気味なもの」で語っている。それは「親しい」と同時に繰り返し現れる「よそよそしいもの」でもある。それは「抑圧されたものの回帰である」。また『影を売った男』(岩波文庫)で、主人公は影を悪魔に売る。
 popの繰り返しはこうした無気味さ、抑圧とその回帰、道徳、宗教とは関係のない繰り返しである。「脇」にふといて、限りなく反復される。これもまた有限でありながら限りないものである。

まとめ
バルトのpop art論のここでの特徴は、それが示す「反復」を新たな時間性の探究と位置付けた上で、それを「主体」の新しいあり方として考え直すことにある。それは、無限者である神なき世界において、有限なものが、かぎりなく繰り返されていく時間性によってかたちづくられる主体なのである。