廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

バルト「この古きもの、芸術」五月二六日

第8断章
ポップは「存在論的な」芸術、事物の本質の芸術。
1) ウォーホールの「繰り返し」:事物がまなざしの前で震える=みずからを求める、みずからの本質を求めるための震え=「ポーズ」(cf. 『明るい部屋』)。個人の本質の肯定。
2) リキテンスタイン:イマージュを洗練し、純化して、「その修辞的本質」を捉える。↔かつては文体の虚飾を消そうとした。いまは「社会的コード」が本質。⇒すぐさま再生産=複製される。

第九断章:
Popは「自然」を思考する。
「自然」≠ 風景画、人間的自然=本性⇒ 「絶対的に社会的なもの」=「群衆的なもの」(le Graigaire)。
popはこの「自然」を引き受け、批判=批評する。
いかにして?
対象や視線に、「距離」を与えることによって。

ブレヒトの「異化作用」の概念を引き継ぐもの。たんに「距離をおいて(à distance/at distance)」対象を定立するが、それを矯正しようとはしない。
群衆世界(大衆世界)に冷たいトラブルを持ち込む。視線の震えは、くすんでいて、それだけに恐ろしい。

ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』(河出文庫
・ (松本潤一郎・大山戴吉『ドゥルーズ──生成変化のサブマリン』(白水社
・ 伝統的には「機械論」と「生気論」が対立していた。
ドゥルーズガタリの「機械」「自動人形」:何かが外から到来し、他ならぬ私の内部に潜んでいるものを私に告げる。私とは、力の「折り目」(襞)ではないか。内と外を切断しつつ繋げる。能動と受動の混迷。
・ 『欲望する機械』:「機械は自然と何ら対立するものではなく、自然によって生産されると同時に自然を生産する機械である」
・ 「器官なき身体」:非有機的身体。「口も下も歯も喉も胃も腹も肛門もない、未分節の非有機的な塊」:死の欲動