廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

音楽的理念の制度化

・ 「運動と知覚の動物」としての身体。

・「私は喉で自分の声を聞く」「私たちは音響的存在である」


プルーストの「小楽節」の分析(プリント)
音楽的な理念(idée/idea)は、感覚的世界とは別の第二の「肯定性(positivité)」ではない。感覚的なものが「語りかけてくる」ひとつの「スタイル」としてある。それはいわば音の振る舞いが、私達の身体においてこだまを響かせるようなものである。一方でそれは「未知のもの」である。だがそれは単に何かに「隠されている」ものではない。「ヴェールなしの視覚などないのだ」(p. 207)。すなわち、視覚が「感覚」というヴェールをまといつつ、私達に「モノそのもの」の経験を与えてくれるように、音楽的理念もまた音響的感覚そのもののヴェールを通して、音楽的「本質」を与えてくれる。ヴェールなしにそれを見たり聞いたりしようとしたら、本質やモノは遠ざかっていく。反対にそうした「モノ」や本質は、闇で覆われたかたちでのみ現れてくる。しかしその闇は無ではなく、そこに誰かがいるのを感じるときのように、闇の組成(きめ)において、そのくぼみとして、5つの音の間にありつつ、みずからをみずから隠しているのである(『見えるものと見えないもの』pp. 207-209)

「その楽節を構成している5つの音相互のかすかな差異と、それらの中の二つの音のたえざる反復」(p. 208)。この(対立ではない)差異と反復が身体を締め付ける。そのとき私たちは、そのモノや本質を「しらなかったことにすることはできない」(プルースト)それは制度化されるのである。そしてそれは快楽だけではなく、身体という金属にヒビを入れかねないものでもある。「最悪のもの」(デリダ)が制度化される危険なしには、世界経験はありえないということであろう。
 だがこのようなデリダ的な「誇張的」な言い方は、レヴィナス的な外在性主義やメシア主義には有効であっても、やや脅迫的なものを感じざるをえない(脱構築主義の思考停止の危険)。むしろメルロ=ポンティの方向は、こうした最悪のものと最良のものに織りなされた制度において、行為の時間的・空間的プロセスを記述することへと向かうのであろう。