廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究会:廣瀬発表レジュメ(改訂版)

クロソウスキー現代思想──フーコーを中心に
廣瀬浩司

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問題点(松本先生からの示唆も含みます)
1)ドゥルーズシミュラークル概念を明示的に放棄したのに対して、フーコーはヒステリー患者(『精神医学の権力』)、ソフィスト(『<知への意志>についての講義」)などにおいて、この概念を使用し続ける。この意味は何か。
2)フーコーの「フィクション」概念に対する、クロソウスキーの影響
3)キリスト教の「脱構築」ではなく、その「真理の体制」をひとつの「擬制」として主題化するために、キリスト教儀礼や制度や自己の技法を分析したこと。この擬制が「イデオロギー」でないことを彼は執拗に強調。フーコーの「告解」が悪であるかのように考えないこと。
4)言語論への影響の深さ→ 課題
5)バタイユクロソウスキーの「経験」が、フーコーが以後のばしていくさまざまな軸の、隠された中心にあること。
6)非人称的な特異性の生産といった次元を前提としないことにおいて、ドゥルーズフーコーデリダは微妙に分離する。フーコーデリダの近さ(論争は相互を近づける)。

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・フランスにおけるピエール・クロソウスキーの哲学への受容。
・ 1963 フーコー「距離、アスペクト、起源」(ロブ=グリエ論における言及)
・ 1963 フーコー「侵犯〔越境(transgression)〕への序言」(バタイユ論)。有限性の試練と己の崩落の瞬間における言語のそれ自身への回帰。「弁証法と人間学から入り交じった眠りから目覚めるためにはニーチェ的形象が必要だった」。→ 「境界の試練」の問題はフーコーを貫く問題。
・ 1964  フーコー「幻想の図書館」(フロベール『聖アントニオスの誘惑』序文):キリスト教とその「誘惑」
・ 1964 フーコー「アクタイオーンの散文」(クロソウスキー論)
・ 1965  ドゥルーズクロソウスキーと諸身体—言葉(les corps-langage)』(『意味の論理学』(1969)に再録)
・ 1966 フーコー『外の思考』(ブランショ論であるとともに、バタイユクロソウスキー等の文学論の総括)。
・ 1968 ドゥルーズ『差異と反復』:「シミュラークルと反復──強度、永劫回帰、そして同一性の喪失」
・ 1972 Nietzsche aujourd’hui(邦訳『ニーチェは、今日』)クロソウスキー、リオタール、ドゥルーズデリダほかによる学会
・ 1996 デリダ講義「歓待について」における『歓待の法』の分析

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(1) シミュラークル
・(ソレルスについて)物たちはみずからをsimulerする。物たちはそれ自体でイマージュ、不完全な(inconsistent)な亡霊、嘘に満ちた思考。神的な現前の外でみずからを表象しつつ、それに合図する(faire signe)。
・simulerの語源的な意味:「共に来ること」自己と共にありつつ、自己からずれていること、別の場所で自己自身であること、自己の外において自己と共にあること。この「共に」において「遠さ」が交差する。(「隔たり、アスペクト、距離」)
(2)クロソフスキーの「経験」(有限性と限界の「試練」)(ヘーゲル「意識の経験の学」)
「同」の到来: A=Aにおいて働く内的で終わりなき運動。両項を隔てつつ絡み合わせる内的運動。隔たりの「働き」(jeu)。
シミュラークル:「同」と「他」の同時的到来(simulacre, similitude, simulation, dissimulation)
シミュラークルと記号=表徴(signe)の差異:意味を決定するのではなく、「時間の炸裂における、現れ(l’apparaître)の次元のもの」(ギリシア宗教に固有。ソフィストストア派キリスト教釈義が消し去ったもの) → [晩年のフーコー] 非言説的な儀礼によって、真理を現し出すこと(真理の体制)
(3)分身の主題:「眼差しにおいて、眼差すものが二重化し、眼差されるものは修繕不可能な分裂に襲われる」
(4)言語:A=Aの内包する「隔たり」において、言説や寓話や罠がみずからの言語を見出す「危険な空間」。
その「越境的」性格:ジードのように不純な言語を純粋化するのではなく、反対に「不純な言語を純粋な沈黙」に関係付ける。
(5)キリスト教における「誘惑」。「不秩序の秩序」を打ち立てた、グノーシス派の誘惑。デカルトの「悪霊排除」→ ニーチェクロソウスキーにより復活。「もし悪魔が、他者が<同>であったとしたら」「知覚し得ないずれであると同時に、分離し得ない組み合わせ」
「神は、みごとに神を模倣するサタンにあまりにも類似している」:これがキリスト教についての絶えざる「危険」であったこと。
(6)誘惑:<分身>のわずかな諷し(insinuation)。
cf. 「幻想の図書館」(フロベール『聖アントニウスの誘惑』読解。フロベールにおける暗いつぶやき)
・誘惑とは、キリスト教の過去が孕む、華麗なファンタスマゴリーとその未来の際限なき習得。現実をイマージュに隠すのではなく、ひとつのイマージュのイマージュをその真理において開示する
『聖アントニウス』:信じていないものを見ること。偽りと真理の混合を見ること。幻想の消失=信仰の消失。
『ブヴァールとペキッシェ』の誘惑:読まれたこと、聞かれたことをただちになすこと。信じるのをあきらめるのではなく、信じていることを行うことをあきらめることで信仰を維持=新たなる「聖性」
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まとめ:
1) 隔たり(分割=絡み合い)の到来としてのシミュラークル。<同>と<他>の同時的生起。ベルクソン的「生成」論の回避。「生」の概念への不信→ 真と偽、同と他のリミットにおける、現れざるものの<現れ>(歴史的偶発性)を辿ることで、「我々の知への意志を決定づける分割のタイプ」を「歴史的で、変更可能で、制度的で、拘束力を伴うシステム(これを彼は後に「真理の体制」と呼び、その政治的含意を示唆する)」として追跡すること。(『言説の領界』)
2) 言語の「危険な」場。「純粋言語の幻想」(メルロ=ポンティ)に対して、忘却を孕む不純な言語を、純粋言語に受肉させること。
3) キリスト教の(キリスト教における)「誘惑」。誘惑の歴史としてのキリスト教
4) 主体—真理の問題系へ
○ 『生者たちの統治について』(1979-80)グノーシス派が洗礼の必要を認めなかったのに対し、テルトゥリアヌス(二世紀)は、魂における悪魔的なものの検討が主題となる。
○ 『主体の解釈学』講義(1981-82)
グノーシス派:キリスト教における(新)プラトン的自己認識の復興。キリスト教はこれを「釈義」(魂の中に生まれる内的運動の本性と起源を探り出す)によって遠ざける。グノーシス派の自己認識をアスケーシス(修練、修得、禁欲)における霊性への到達へと置き換える。自己において神的なものを認めるのではなく、むしろ自己の内なる堕落の痕跡を見出す訓練
→ これらは、たえず真理の体制に生じている「知覚不可能な隔たり」を、自己と自己の隔たりとして捉え、そこに「アスケーシス」という実践の場を現せしめる試みなのではないだろうか。

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「上向と翻訳」についてのメモ
・ 記述(Darstellung)とその「端緒」についての問題は、メルロ=ポンティにおいても重要な問題であり続けた。初期の『行動の構造』では、「物理的・生物的・人間的」という三つの行動のゲシュタルト化を「下から打ち立てた上で、それらの(ずれを内包した)相互的「基礎付け」を指摘し、それらを横断する哲学的=実存的=歴史的行為として「知覚すること」が導入されていた。
・ しかし「知覚すること」はどのように同時に間主観的に知覚すること(「制度化すること」)となるのか?「知覚不可能なずれ」を、既成の言語で語るならば、それは既成の言語に回収されるのではないか。ここに彼なりの「哲学言語」の模索がある。
・ またこれは与えられた「生活世界」という端緒と超越論的主体(ないしは領野)との双方向的関係でもある。この双方的関係においては、構成する主体がある意味構成され、語る者が語らせられる運動がある。この「危険な」パラドックスを引き受け、「神秘的外皮の裏面」を見えるようにすることに、彼の晩年のキアスムの思想の主眼があった。その当時彼がヘーゲルマルクスとの対立を試みていたことも付け加える必要があるだろう。キアスムとは上向でも下降でもなく、たんなる「相互基礎付け」でもなく、横断的な「翻訳」なのだろうか。