廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究V:メルロ=ポンティ『知覚の現象学』の幻影肢論(2)

幻影肢という「現象」(2)
認知行動療法補足:
1) 触覚はたんなる外的刺激の直接的な受容、反射ではない。
2) ざらざら、すべすべという感覚は、手の運動のプロセス全体で「能動的」に感受される。
3) この感覚が取り戻される「瞬間」、それは自己の身体への「気づき」(awareness)でもある。自分が触れているのに触れること。自分が見ているのを見ること。自分の身体が「自分」の身体であることの自明さとそこにある微妙な距離。
4) こうして「身体」と「世界」がつなぎ直される。自己の身体への気づき(ナルシシズム)=外界への開け。
===========
1) 幻影肢(p. 138-140)
・ 生理学と心理学、末梢説と中枢説の「あいだ」
生理学的に説明できない要素(三人称的)→心理的な情動、記憶(一人称的)?→しかし幻影肢は「物質的」に消去しうる。
・ 混合説:しかし「空間的」な生理学的事実と、純粋に精神的なものとの「混合」はありえないのでは?
2) 実存(p. 141-144)
・ 動物の「代償行為」の例:環境の「問題」に回答を与えるように、新しい運動を創出すること(cf. 『行動の構造』邦訳六九頁以下。
 「動物は同一の世界に存在し続けようとする」(141)
 「動物は自分自身で自分の環境の規範(norm)を計画し、自分自身で自分の死活の諸項を措定する」(141)  
= 外から与えられた「規範」「法」「目的」ではなく、その都度の行為の過程で、感覚と運動が連動しながら、環境の「意味」に即応するような、新たな行動の「スタイル」を「創発」していく過程。
問題:この「模索」過程を何が導いているのか。
・ 「世界内存在」(être-au-monde)として実存するとは??

  • 客観的知識ではない
  • 動物のまわりの「状況」は、「開かれた」状況。メロディの比喩。
  • これはたんなる「反射」の総和ではないか、という批判に対する応答。
  • 「反射」概念の批判。盲目的ではなく、「行動的環境」の「意味(sens)」への反応。
  • 反射は対象の構造を「距離をおいて(at distance)」(p. 142最終行)描き出す。距離とは????

反射=客観的で直接的な諸刺激の結果ではなく、むしろ、「そちらに振り向き」、それらのひとつひとつに「意味」を付与する。(143)
・ 「前客観的な観点(邦訳「視界」)」「実存衝動のある種のエネルギー」(144)
・ 「世界内存在は第三者的でも、思惟(コギタティオ)でもないが、それゆえに「心的なもの」と「生理的なもの」を結び付ける。

3 両義性(145-)
・ ポイント:現前と不在の間の中間者を認めること。捉えがたいリアリティ。
・ 「疾病を失認する人がその欠損から目をそむけることができるのは、彼がその欠損に出会いそうになる場所はどこかをあらかじめ知っているから」(146)
・ 「腕の幻影肢は、腕の表象ではなく、ある腕の両価的な現前である」(いない友のことを考えること)。
・ 「欠損の拒否とは、一つの世界への我々の内属の裏面にほかならない」(147)
(補足)メルロ=ポンティはこのような現前と不在の間の次元を「深さ=奥行き」の次元と呼び、私たちはこの「深さ」に取り巻かれているという。そこでは「根源的に現前しないものが現前する」。これを実現したのがたとえばセザンヌジャコメッティの絵画である。「われわれは、ものの奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、堅さなどを見るのであり、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見るのである」

4. 私の身体は、世界の「軸」である。
「病人は自分の損傷を否認するかぎりでその損傷を知っており、知っているまさにそのかぎりでそれを否認する」(148)。
「習慣的身体」と「現勢的actuel」身体(148)
「ひと」と非人称的な身体。

非人称的な時間の「流れ」
「抑圧は非人称的なものの到来(avènement/advent)として、ひとつの普遍的な現象。」(150終わり)。
・p. 149-150の熟読!
「私が悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れ切っているあいだにも、すでにわたしのまなざしは前方をまさぐり、ぬかりなくなにか輝いたものをめざしており、こうして自分の自立した生存を再開している。(中略)その瞬間の直後に、時間は、すくなくとも前人称的時間はふたたび流れ始める」(151終わり)
「過去はあたかもわれわれの力が流出していく傷口のようなものとしてとどまる」(152-153)
「腕の幻影肢は、抑圧された経験と同じく、まだ過去になりきってしまわない古い現在だ」(154、l. 6)
→ 幻影肢の不思議さは、結局のところ「時間」(現在に付着する過去)の問題へと帰着する。


さらなる問題:こうして幻影肢は、存在でも不在ではないが、私たちが自分の身体に「問いかけ」るとき、ある種の過剰なものとして「垣間見える」「出来事」として「斜めに」経験される。この経験に問いかけることで「経験」そのものを変容させていくのが芸術ではないか。
・ 衣服や装飾や恋愛と文化的なもの(157)
参考文献 シルダー『身体の心理学』(星和書店