廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

幻影肢論(まとめ)

5月12日
幻影肢論のポイント
1) 幻影肢は身体の実存の両義性に関係する。実存とは、対象への意識の住み込みであり、「ひと」という様態で存在する。
2) 幻影肢は現前でも不在でもない準現前するもの。無ではなく、「習慣的身体」が世界を目指すあり方に関係
3) 身体の実存の両義性は、時間の両義性に関係する。それは客観的な脳内痕跡でも、主観的な記憶でもない。「過去になりきれない過去」として、現在に「厚み」を与えている。
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1) について(p. 141-143参照)
動物もある意味で「実存=脱自」(Exsistence、Ek-sistence)する。動物も「開かれた状況」を生きており、その「相対的な意味」に応答している。メロディーの比喩(cf. ユクスキュルの動物行動学。『動物から見た世界』(岩波文庫)。)
意識はその状況に「参加」している(engagé)。身体は「知覚する動物」である。

2) 現前か不在か、記憶か忘却か、という二者択一で考えないこと。
欠損や不在を「すでに見抜いていながら、それを否認している」(146).
不在は「生の地平」に含まれている(147)。

補足:現前と不在という言葉について
サルトルの「存在と無」の対立に対する批判。
サルトルは、たとえばここにいない友人を思い浮かべるとき、意識はその人そのものを目指しているが、同時にそのイメージにいわば「不在」のマークを付けている。イメージは「不在の現前」としてあり、「知覚」とはまったく違うもの。
メルロ=ポンティ:不在はいわば現前に編み込まれている。知覚においても「見えないもの」は「見えるもの」とともに知覚されているということ。それが対象の「厚み」や「深さ」をかたちづくっている。だから想像的なものと現実的なものは混じり合っている。

3) 時間の両義性。
・ 記憶でも忘却でもなく、その「間」にあるもの。「幻影肢とは想起ではなく、準=現在である」。
・ 「腕の幻影肢は、まだ過去になりきってしまわない古い現在だ」(154)。
→ この古い現在が、「現在」に入り込んでいて、「現在」の「厚み」を形作っている。

メルロ=ポンティの時間論について補足
メルロ=ポンティにとって、時間とは単なる「点」のような出来事の連鎖ではない。
・ 「現在」は「過去の地平」と「未来の地平」と連続していて「厚みのある現在」「垂直的な現在」を形作っている。
・ しかし、直前の経験であるのにあっさり忘れられる体験もあれば、遠い過去であるのに残り続ける過去もある。この時間には一種の「歪み」がある。体験の「内容」が、時間の「形式」に影響を及ぼすこともあるということ。
・ このようにメルロ=ポンティは、たんなる点としての時間でもなく、また数学的な真理のように「イデア的」なものでもないのに、なにかが「残り続ける」ような時空間を切り開こうとしていると思われます。→ 歴史以前の記憶、神話的記憶、父母未生の生

cf. 「けっして現在ではなかったような過去」(『知覚の現象学2』p. 59.そのような幻影的な過去に私たちは「身体」を通して開かれている。
cf. デリダレヴィナスはこのような過去を「痕跡」と呼ぶ。現在という点は、このような痕跡にたえず蝕まれ、分割されている。「生き生きとした現在」を脱臼させる「亡霊的なもの」。

次回プリントへ
・ 身体がつねに「私とともにあること」
・ 身体が「ここにあること」
・ 二重感覚
・ 感情的「対象」としての身体(「苦痛が私の足から来る」とは)
・ キネステジー(身体運動感覚)