廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学概論I 5・19 絵画の身体・身体の絵画

第一章 画家とその身体

1)アンリ・マティスの「筆」
 マティスの「意図」とは自由に「思考する筆」。
・ 意志とは別の動き。「マティス自身が驚く」
・ しかし無数の選択肢の中から「選択」は行われる
・ 「手がためらい、思いをこらしたことは本当であり、したがって選択があったということ、そして選ばれた線が、画像の上に散在している無数の条件(中略)を満たすように選ばれた、ということも本当なのだ」(メルロ=ポンティ『世界の散文』(みすず書房)。
・ 「意志」でもなく「完全な受動性」でもない、「あいだ」の世界で身体はひそかに働いている。
・ このような身体のひそかな働きが「文化」と呼ばれるものを支えているのではないか?
・ cf. ライプニッツの神(「神は必然的に最善の行動をする」についてはフランクリン・パーキンズ『知の教科書 ライプニッツ』(講談社メチエ)

cf. モーリス・メルロ=ポンティ(1908-61)。フランスの哲学者。とりわけフッサールの「現象学」を、当時のゲシュタルト心理学の成果を取り入れつつ、身体の問題を中心に探究したことで知られる(『知覚の現象学』)。当初はサルトルと協同していたが、マルクス主義への態度をめぐって訣別。
 また身体から出発して、それが言語や芸術や歴史的世界にどのように「取り上げ直されている」かをたどっていき、たとえば言語にも、創造的な沈黙があることなどを出発点に、表現論を練り上げていく。(『世界の散文』)
 このように心理学、言語学社会学歴史学そして当時の芸術の動向などを踏まえつつ、晩年は『見えるものと見えないもの』という大著を準備していたが、1961年急死。晩年の思考は、芸術論である「眼と精神」に凝縮されているが、その最後の哲学の評価はこれからである。

2)肖像の起源
「影の文字」「知覚はその起源からして思い出に属する。彼女は書く、ゆえに愛する。すでにノスタルジーの中で。知覚の現在から遊離し、かくして分裂した物そのものから脱落した影は記憶であり、ディプタデスの棒は盲者の杖である」(ジャック・デリダ『盲者の記憶』みすず)

ひとは描くとき、そこには一種の「盲目性」がある。→ メルロ=ポンティはそこにこそ描く者の身体性があると考える。身体はいつも「私のかたわら」にあるが、私はそれを意識することはない。それはいつも「ここ」にあるが、この「ここ」を「どこ」と言うことはできない。描くときに密かに働いているもの。

3)絵画の身体、身体の絵画
イタリア14世紀の文化的発明品としての遠近法。
一点透視。
動かない身体からの展望。
数学的構築。
画家自身の身体は本来はそこには介入しない。鏡の使用。
ベラスケス<侍女たち>。cf. フーコー『言葉と物』(新潮社)「表象の表象」