廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

「『眼と精神』12月8日

・外部の内部、内部の外部。絶対値の関係?
・絵の完成とは、外部の内部化と内部の外部化が幾度となく繰り返された末の収束点
・イメージは現実を「見えるようにする」のか or 「現実を変形して見えるように仕向けているのか」
・他者の仕草の「読み取り」=幼児の親の表情の読み取り。これは境界がなくなったというよりは、表情や声などが「境界」であると考えるべき。→ メルロ=ポンティも『見えるものと見えないもの』で、接触平面=分離面、と表現している。
・鏡は平面でありながら、たしかな奥行、広がりを見せる
補足:素朴実在論。「物質的対象からなる世界は主観に対して独立にあると考える常識的信念をそのまま肯定する考え方」「世界はわれわれがみるとおりにある」(摸写説)
[16]以下について。
・画家は、山が山となるための手段を山に求める。光、照明、影、反射、色など、亡霊的なものが、どのようにして山を見さしめるのかを問う。『夜警』の例。
・これらの戯れは、見えないからこそ、物を見せてくれる。近代絵画はこのような亡霊たちを解放した。「身体のなかで物が熱気を帯びて生まれてくる密かな生成」(93)
[17]
アンドレ・マルシャンの言葉(95-96)
・<存在>の「吸気(inspiration)」と「呼気(expiration)」。<存在>が、身体を通して呼吸する。空間が身体を通して、自分を感じる。
[18]
・オランダ絵画の鏡。「この人間以前の眼差しは、画家の眼差しの象徴である」(97)。
・鏡は見る身体から、見える身体への開かれた回路のうえに出現した「身体技法」(モース)。(97)
・シルダー〔身体図式、ボディイメージの心理学〕の実験。手の「そこ」にある感覚が、鏡の中で同時に感じられる。「同時性」。この場合、同時とはどのような意味か。
・このように鏡像は他者の身体を「身に纏う」ことができるようになる。人間は人間にとって鏡。見る者と見えるものの相互変身(99)。自画像。

・まとめ:夢想的世界、実効的類似、同時性、想像的なものと現実的なものの混じり合い、本質と事実、見えるものと見えないものの混じり合い。


◎ この節のポイントは以下にあると思われる。
・画家の視覚は、光、照明、影などの「亡霊」が、すでに「人間がそこに到来する以前に」かたちづくっている「見えるもの」を見えるようにすることである。もちろん、画家の感性は時代によって、また画家一人一人の「個性」によって異なるものである。しかし、画家がそうした特異な感性をとおして「問いただす」のは、「山そのもの」「物そのもの」「存在そのもの」が現れてくる、ひとつのやり方であり、画家とはそのことに確信を持っている人のことである。
・もちろんそれは、「存在」の一部にすぎないかもしれない。しかし、存在とはこのようにしてしか接することはできないようなものなのだ。つまり、部分的ではあるが、存在の全体を表現しているという確信がそこにはある。いや部分的だからこそ、そこに存在の全体性が現れているのではないだろうか。部分と全体は相互に補い合っている。このように「存在」に対して、部分を通してのみ接することができるという考えを、メルロ=ポンティは「間接的存在論」と呼ぶ。

・身体のほうは、まずはその全体性を受け止めなければならない。たんに「受動的」であるというよりは、その全体性(「自然」)に見られること、刺し貫かれることである。こうして受け止めた全体性に対して画家は、手持ちの個人的な技術、技法をもって応答するしかない。このことは、ラスコーの洞窟壁画であろうと、アニメーションであろうと、同じことなのである。
・よく考えてみれば、メルロ=ポンティは身体は「見えるものであると同時に見る者である」というが、この「同時性」はわずかなズレ、遅れを孕んでいると言える。みずからの身体を貫く存在の全体性の中から、画家はなんらかの「手がかり」を見つけ、そうした「断片」を継ぎ合わせることで、それを表現する。ここに「技術」(身体技法)や「文化一般」の芽生えがあるとも言えるだろう。あるいは、それは「存在」のメッセージを解読する作業であるから、「情報」の萌芽であるとも言えるかもしれない。
・鏡とはこうした身体の技術を、空間的に具現するものである。シルダーの実験では、同じひとつの感覚が、鏡の向こうと此方側で「同時に」感じ取られる。空間的な「距離」にもかかわらず、いや、その距離ゆえに、同時に感じられるのである。鏡とは身体の二重性(見る者でもあり、見られるものでもあること、部分的でも全体的でもあること)を増幅するものである。あるいは、内部と外部の境界において働いている密かな働きを、「技術」へと延長したものだと言えるかもしれない。

この考察の現代的な意義
・このような思考は、画家だけに言えることだろうか。たとえばハンナ・アーレントは「現れの空間」としての「公共空間」について語る際に、メルロ=ポンティを熟読したという。画家が、<存在>とのあいだで行う孤独な「対話」は、私たちの公共空間をも織りなしているのではないだろうか。身体の二重性は、自他の関係、言語、そして共同体、技術社会などに延長される。そこでもまた、私たちの身体の内でのひそかな生成は息づいているのではないか。もちろんセザンヌやクレーが持っていた身体と、現代の社会で私たちが持っている身体は、「文化的・社会的」に異なる、と言ってしまうのは簡単である。身体が、文化的に意味付けられていることなど、メルロ=ポンティはよくわかっている。だがにもかかわらず、こうした意味の枠組のようなものが、息詰まるように感じられるとき、こうした枠組を「歪ませたり」、その構成要素をずらしてバランスを崩したりして、新しい「存在の現れ」「他者たちとの新たな関係性」を作り出したいという「欲望」を私たちはつねに持っているのではないだろうか。「欲望」「欲動」といった言葉は、彼の晩年の思想によく出てくる言葉である。このばあい「欲望」「欲動」とは、こうした文化的・社会的意味づけを、どうにかして揺り動かしたいという情動のことではないだろうか。こうした分析は「制度分析」と呼ばれる。

デリダの「差延」。メルロ=ポンティが語った「見えるもの」と「見る者」の関係(それは時間的、空間的なズレを孕んでいる)を、もっぱら言語的な次元で展開したのがデリダである。彼もまた、能動でも受動でもない次元の働きを「間隔化」(時間が空間を孕み、空間が時間を孕むこと)と呼ぶ。ただし彼がモデルとしたのは、「原—エクリチュール(文字、書く行為)」であり、それが残す「痕跡」である。
・晩年のフーコーは、「自己の配慮」について語った。自己の配慮とは、自己との関係をしかるべくかたちで打ち立てることで、真理に到達するよう修練(修行)することである。とりわけキリスト教の「告解」という儀礼は、こうした自己との関係を統御するための中心的な儀礼であり、技法(テクノロジー)である。そしてこの自己との関係の「統御」が、他者との関係の統御でもあるとフーコーは言う。自己が、自己を対象にして、自己を道具にして行うさまざまな儀礼や技術が、西欧の「主体」を形づくっていたとフーコーは考えていた。
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来週までにしておいてほしいこと
◎これまでのテクストを読み、自分なりの言葉にまとめながら、できたら問題提起、応用可能性などを探ること。「自分の関心」に引きつけてもよいが、まずはテクストの中から出てくる「問いかけ」を拾い上げてほしい。テクストの中で、あなたの応答を待つ「沈黙」がそこにはある!!