廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

研究計画の書き方(1年生用)

(参考1)
研究計画の書き方(これを参考にレポートを書く癖をつけてもよい)
論文題名:「ロラン・バルト芸術論研究」
副題:そのミクロな感性の普遍性に注目して
○ 論文題名は種に研究対象のみを明示して、あまり色をつけない。
○ 副題は、筆者の視点や方法論を示唆するようなものでよい。

研究動機
・研究動機=卒論のテーマでなくてもよい。たとえば「ひとはなぜ衣装を着るか」「ひとはなぜ他者の視線を意識するか」という動機があったとしても、それに直接答えることは難しい。
→ そこで、この動機に答えるための、さしあたってのとっかかりのようなものを探してみる。たとえば現代のファッションの一つがその答えを指し示しているかもしれない。フーコーのある著作が同じ問題を歴史的に語ってくれているかもしれない。したがって「動機」は心の中にひそかに強くしまっておき、以下の「研究目的」として練り上げていくとよい。

研究目的
オートポイエーシス理論を利用して、身体の「気づき」と自己の関係について考える。
・あるデザイナーの研究を通して、その身体性との関係、社会的な影響について考える。
など、具体的な材料を通して、自分の「やりたいこと」に間接的にアクセスしてみる。

研究方法・計画(目次)
序:研究目的のまとめ、研究対象の明示、「問い」の明示。例)大野一雄のパフォーマンスを、ダンス史の中で位置付けたうえで、その現代的な意義を考える。
章立て:
第三章 大野一雄とその同時代人との関係(彼の独自性を位置付ける)
第二章 大野一雄のある作品の身体論的分析
第三章 分析の結果による考察
結論
○ 「先端文化」では、ある既成の理論をあてはめて、答えの決まっているような分析をするよりは、対象へのこだわりから出発して、その魅力を列挙し、その魅力を語るにはどのような方法論がよいか、模索するのを奨励している。



○ 「方法」は要するに、ひとがやっていない何かを見つけて、それに徹底的にこだわることから生まれる。要するに対象(本文)との密着から始めて、自分がこだわる点をどうすればうまく表現できるか考えること。ひとまず参考文献、というのでももちろんいいが、散漫になる危険がある。

結論の見通し
これまで考察をじゅうぶん書き込んでいれば、実際の結論は短くてもよい。むしろ「序」のほうが長いのが普通。むしろ分析と考察が重要。
ふつうは以上でおしまい。
○ 私はその後に「終わりに」というおまけをつけて、動機を剥き出しにして書きたいことを書く、というのを薦めています。

参考文献(自分なりのリーディング・リストを作り、指導教官の意見を聞く)
1) 一次文献、資料。分析の対象となるもの。作品、芸術家の文章、ソースなど。
2) 先行文献。1)を直接論じている、資料、論文など。
3) 関連文献。1)に直接は関係ないが、論文で実際に多く引用したりする方法論的な文献や資料など
4) その他。本論には関係しないが、インスピレーションの源となったものなど。

○ この「研究計画」はかならずしもこの順番に練り上げていくものではなく、「動機」を中心に行ったり来たりで作られる。とくに「序」は最後に書くのが普通。

まとめのエッセー
・現代は「コミュニケーション」の時代と呼ばれ、とりわけ自己を明快に提示することが求められる時代であるように思える。そのようにして、「自己」を計量可能、評価可能なものにすることが、どのような意味を持つのか、なぜひとは無意識にそのようなものとして自己を捉えてしまうのか、そしてそのような自己の集団はどのようなものになるのか。
 それは「管理」や「統治」を容易にするためだ、というのが伝統的な左翼的回答である。自己と呼ばれるものは、コントロール可能なものとしてデータ化され、「個人情報」が蓄積されると同時に、それを蓄積してマクロな管理が行われている。私たちはそれに慣らされ、無意識に自己管理してしまう、というわけだ。
 だがこの授業では、こうした「批判」だけでは、私たちを取り巻く(広い意味での)環境や制度は変わらないと考える。身体の感覚に注目すること、その受動性の中に眠っている、創発する力の潜在性を信じること、このことから出発したい。そのためには、ほとんど主観的なものと思われる些細な感情の動きなどにも、大きな意義を読み取っていく必要があるだろう。ミクロな感情・感性の動きが、しらずしらずのうちに世界や他者に広がっていく経験を広めたい。一見ナルシシックに見える、自己自身への問いかけや修練が、大きな集団形成に寄与することもあるのではないだろうか。そしてそのような視点から発するならば、身振りや言葉、他者との関係、集団のあり方なども変わっていくことを信じたい。たとえそれが相互に異なっていても、それらは現代社会に対するひとりひとりの応答として、いつかひそかな集合態として、制度を揺り動かしていくのではないか。それはたんなる「仲間」の横の繋がりでもなく、階層的な集団でもない。人と人との間を縫い合わせるようにして、自己を他者へと開いていくのではないだろうか。