廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

デリダイントロ(つづき)

題名:デリダの思想のエッセンス。「差延の非決定性」から「非決定性の試練における決定」まで

差延
◎ デリダの三重の疎外(疎外なき疎外)=フランスにもアルジェリアにもユダヤ教の伝統にも所属感を感じない。とりわけ市民権を奪ったフランス語のみが彼にとっての「母語」である。「私はフランス人の人質だった」(『たったひとつの、私のものでない言葉』、p. 32)
→ 「私は・・・である」という自己との一致(アイデンティティ)から出発できない。自己が所属する「共同体」、という発想を受け入れない。国家の「起源」は、単一な起源ではない。むしろ「原暴力」。

問い:「共有するものなき共同性」(リンギス)の具体的なイメージ。「死者たちの共同体」ではなく、「来たるべきもの(à venir)」の共同体。

1)自己について語る
「自己について語ること」の「不可能性」。だからこそ「語りたい」という狂おしい欲望が生じる。語り得ぬものを語ること。
cf. ナチスの「大虐殺」(ショアー)の記憶の「証言」。当事者しか証言できないが当事者は出来事の「法外さ(extra-ordinaire)」ゆえに語れない、しかし「だれも代わりには語れない」(ツェラン)、というパラドックスをどう生きるか。cf. 『シボレート』

◎ 差延と痕跡。
2)「私は・・・である」という、自己と自己との関係に「他者」(他性 alterity)が入り込んでいる。いや、むしろまずこの「他性」が先にあって、自己は後から「遅れ」て作られる。

3)自己と自己との時間的なずれの中に、「他性」が入り込んでいる。自己と自己とのあいだの「差異」、他者に対する自己の「遅れ(延期)」。これを彼は「différance」と呼ぶ。「遅らせる差異」「差延」。能動的でも受動的でもある自己との関係。「時間の受動的綜合」に生じる裂け目のようなもの。「時間の蝶番がはずれている」(ハムレット)(『マルクスの亡霊』)。
自己以前に「あらゆる受動性よりも受動的なもの」(レヴィナス)が「ある」。

4)「いまこの瞬間に」「私が」「生きている」という命題(「根源的印象」「生き生きとした現在」)に、「差異」と「遅れ」が入り込んでくる。
「現在という瞬間は根源的に分割されている」。現在の純粋さに差異や「他との関係」が「混淆」している。
「けっして現在でなかった過去」と「けっして現実にはならないであろう未来」が、現在に入り込んでいる。過去は「痕跡」としてしか残っていない。それをふたたび「再活性化(reactivation)」して現在に戻すことはできない。また未来もけっして現在は予測できないものとして「到来(advent)」する。現在と呼ばれるものは、こうした二つの「他との関係」によって蝕まれ、さらにはそれによって構成されている。
(「現前の形而上学の批判」『声と現象』)

「けっして現在でなかった過去の痕跡の記憶についてどう語るか」という問題がここで生じる。一種の「失語症

問い:このように現在は、つねに他との関係に蝕まれている「決定不可能なもの」である。しかしひとがなんらかのかたちで決断しなければならないとしたら、その決断はどのようなものになるだろうか。たよりにすべき掟のない「倫理」。「非決定性を耐え忍ぶこと」(cf. 『アポリア

「間隔化、空間化(espacement/spacing)」と「境界の通過」
5)これは時間的なものの中に空間的なものが入り込んでいる状態。これをデリダは「間隔化(espacement/spacing)」と呼ぶ。時間が空間になり、空間が時間になる。
「パレルゴン」(parergon)。額縁、装飾など、「作品の周縁」にあるもの、あるいは主題には無関係な細部のこと。
→ 自他の「境界」、内部と外部との問題。内部はつねに外部に侵蝕されている。「内部の内部」に「外部との関係」がある。外部に「内部の飛び地」がある。境界が内部と外部の区別を作り出している。

問い:この境界を通過することは「内部と外部の非決定性」を「耐え忍ぶ」こと。共同体の脱構築。国家の脱構築。このような状況において、「来たるべきインターナショナル」をどのように構想するか。(cf. 「歓待について」「シボレート」)


◎ まとめ:
1)デリダはこの自己の言語的な経験は、すべての言語に普遍的だと考える。というより「特異(sigular)」であると同時に「普遍的(universel)」。現在として経験できなかったものの記憶。しかしデリダはそれを語ろうとする狂おしい欲望も持っている。「みずからの言語とみずからの<私>を発明しなければならない」(p. 58)。しかしそのようなものを「現在」の私は「予測」できない。なぜならそれは「けっして現在とはならない未来」でなくてはならないから。それは「他者から到来する」とデリダは言う。「決断は、それがあたかも他者から来たかのようにして遂行される」(『法の力』)。
2)思想史的位置付け:
・哲学的には、現象学から出発して、「現象しないものの現象学」「顕現しないものの現象学」(新田義弘)へと突き抜けようとするもの。「他者」の主題は、エマニュエル・レヴィナスの影響が強いが、かならずしもレヴィナスに全面的に同意しているわけではない。
・いわゆる後期になると、「決定不可能性」「差延」ばかりではなく、<決定不可能性のアポリア>を耐え忍ぶことにおける「他者から来たような」決断を語り、いわゆる「政治参加」的な発言も多くなる。アパルトヘイトにおける「赦し」、国家の内と外(「歓待」)、来たるべき民主主義、「宗教」の「自己免疫」などについてである。
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予定表(案):
5月2日:「盲目の視界のなかで──書くこと、見ること、触れること」(『盲者の記憶』みすず)イントロ
5月10日:デリダの講演について発表。p. 7-31.発表者(               )(                    )コメンテータ(               )
5月17日:前回の発表について討論。「メディアの亡霊たち」(廣瀬)
5月24日:「時間と記憶、メシア性と神の名前」イントロ。「不可能な喪」発表者
5月31日:発表者(p. 67-80)(                    )(                              )コメンテータ(                         )
6月7日:前回の議論。「肯定的な脱構築、遺産相続、テクノロジー」(廣瀬)「正義、植民地化、翻訳」イントロ
6月14日:「正義、植民地化、翻訳」(p. 101-109)発表者(                    )コメンテータ(                         )
6月21:中間総括
6月28日:「歓待、完成不可能性、責任」イントロ
7月5日:発表者(       )コメンテータ(                              )
7月12日:他のテクストについての発表(                         )(                         )
7月28日:他のテクストについての発表(                         )(                         )
8月2日:まとめとレポートの指示。

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発表の仕方については「イントロ」で見本のようなものを示しますが、だいたいの流れは
1)発表の題名(自分がポイントと思う点)
2)その説明 (口頭でよい)
3)デリダの発言のなかで重要だと思われる点をピックアップしていく。引用などもしてよい。
4)けっきょくデリダはどのような問いを発しているか
5)議論、疑問点、展開の可能性などによるまとめ
というかたちにします。
コメンテータは、「全体を読んでおく」「自分なりの考えをメモしておく」「発表を聞いたリアクションを加えて、10分くらいコメント」

評価(%はめやす):
・出席点、議論の参加(名前を言ってから発言して下さい)30%
・発表、コメントの内容(50%)
・レポート(20%)
発表した人はA4一枚以上の「自分の発表とその後考えたこと」のまとめ
コメンテータは、A4一枚以上の「自分のコメントとさらなるコメント」
発表しなかった人は、テクストを指定する(あるいは自分で選ぶのでもよい)ので、それについてレポート(A4、3枚以上)
A4=1200字。