廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

1 「生きている」アクチュアリティ
問い:現代の自然科学的な医学は、はたしてほんとうの意味で生にかかわっているのか。
・目的意識と価値観の排除
ヴァイツゼッカー「生命そのものはけっして死なない。死ぬのは個々の生き物だけである」(56)
・「生きていること」:個々の生きものが、生殖を通じて、子孫に手渡していく「生命の基本的な現実(アクチュアリティ)」
・「リアリティ」進化する種や生体の「不連続性」
「アクチュアリティ」:「非・不連続性」
○ なぜ「連続性」と言わず「非・不連続性」と呼ぶか(57-58)
→ 「もの」「実体」だけが連続だったり不連続だったりする。生命は「こと」であって、実体ではない。また時間的な非連続ではなく、「他」との「非・不連続性」を含む」。
→ ドゥルーズはこのようなものを「非人称的」で「問題的」(問いを投げかける)で「特異性の生産」を孕んだ「領野」と呼ぶ。

・「生きていること」「生きていることそのもの(Leben als solches)」
ノエマ的ではない。
アクチュアリティ:現在的、顕在的(⇔ヴァーチュアリティ)
・体感的
・世界の肌理
・実践(行為=act)と切りはなせない。
→ にもかかわらず理性的認識より「確実」なのはなぜか。
アメーバの例(環境との相即)
人間のばあいは、「対象認識」に覆い隠され、「自己意識」の「対象」(表象)になってしまう。
→ ノエマ的な側面を一時停止する必要がある。
そうすれば「対象」とは違った、「意識のうごきそのもの」「働きそのもの」が見えてくるのではないか。
Cf. 『生命と現実——木村敏との対話』河出書房新社、二〇〇六年。

廣瀬コメント
・「身心相関間主観性」において木村は「根拠関係」について語っていた。しかしそれ自体では「生命」というものがいかに、有限な私の「現在」にかかわっているかは明らかではない。それは一種の「もの」として実体化されてしまう危険がある。この「ヴァーチュアル」な「生命そのもの」と、私たちの経験の「アクチュアリティ」の関係はどのようなものなのか。

参考1 「もの」と「こと」、対象認識と非対象的感受の差異を木村は「離人症」の例から発想したという。机という「もの」は見えているのに、それがここに「ある」こと、そして自分がここに「いる」ことが感じられない。リアリティはあるがアクチュアリティがない。

2 環境との「相即」
問い;環境との「接触」はどこで行われているのか。
リアリティの視点からは、→ 「感覚器官」
アクチュアリティの視点からは「有機体の全体と環境世界のあいだに、そのつど現在進行形のアクチュアルな相即が維持されていること」(65)

音楽の例(66)
音同士の関係、ひとつの音と別の音すべてとの関係
「シ」という導音
「シ」は鳴り始めた瞬間から、すでに「ド」への動きを伴っている。それ自体の「なか」にドとの差異をはらんでいることで、はじめてアイデンティティを持つ(67)。Cf. デリダ差延
・ヴァイオリンを弾きながら、同時に別の楽器を弾いている。

○ 生きものが境界であるなら、その「内部」と「外部」を語ることは意味がない。「入力も出力もない」(オートポイエーシス)。閉鎖も開放もない。それ自体が「窓」

問い
・生命という「コト」と、いまここに生きているアクチュアルで有限な「もの」はどう関係しているか
・タイミングがとれない。。 偶然性と必然性の関係。

参考
・「リアリティとアクチュアリティ」(『木村敏著作集7』
・『生命と現実——木村敏との対話』河出書房新社、二〇〇六年。
木村敏『偶然性の精神病理学』(岩波現代文庫)(「タイミングと自己」を含む)
ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(河出文庫
・クラーゲス『リズムの本質』(みすず書房
・山下尚一『ジゼール・ブルレ研究』(ナカニシヤ出版)にクラーゲスの批判あり