廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

メルロ=ポンティと無意識

メルロ=ポンティにおける欲望(欲動)の問題について考えるにあたって最低限おさえておきたいこと

1)リオタールのDicoours, Figursの痛々しいまでのメルロ=ポンティ乗り越えの作業の痕跡、
それにたいするドゥルーズのあまりにも断定的な批判の妥当性
2)「欲望」概念に対するフーコーの拒否、そこにおける「否定性」の問題についての考察。
3)フーコーが「欲動」という19世紀的概念ではなく「快楽」概念を実践的に選び取ったことの意義。「欲動」概念の生物学主義からの脱却という意義
4)欲望を語るにあたって、ヘーゲル的な相互承認論、およびそれに基づいた「ナラティヴ」概念の批判的検討
ボーヴォワールフェミニズムのナラティヴとの共犯の危険性(ヘーゲルを主人と奴隷の弁証法だけで
理解することの危険性)。そこから何が抜け落ちるのか、ナラティヴが何を語り得ないのか、そのことと
治療における「暴力性」。
5)ラカンの(さまざまな実践的な修正にもかかわらず)残存するヘーゲル主義の検討(これは本来もう終わった話である)
6)身体図式の規範性と、その「蝶番」を外すこと

いずれにせよ、30年前のメルロ=ポンティ研究の状態に逆行してしまっては、「いまメルロ=ポンティを読む人」が
気の毒である


cf. http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/documents/jitsuzon001.pdf