廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

レヴィナス 1

○ 生活世界(Lebenswelt)cf. フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(中公文庫)
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エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas)(1906-1995)

リトアニア生まれ、フランスストラスブールに学ぶ。初期のフッサール研究『フッサール現象学における直観の理論』はサルトルデリダにも影響を与える。同世代のサルトルメルロ=ポンティが活躍していた1945-1960年にはほとんど知られていなかったが、1961年の『全体性と無限』が1980年代に再発見され、その「他者」の思想、外在性の思想が大きな影響を与える。

論点
レヴィナスの「他者論」と外在性の思想
現象学と「倫理」
ハイデガーからの影響と批判
ユダヤ思想と「哲学」
キーワード
「ある(il y a)」、傷つきやすさ(vulnérabilité)と皮膚、顔、糧と享受、全体性と無限、他性、無限、身代わり、第三者

「ある(il y a)」(1946)(『レヴィナス・コレクション』所収
「事物と人間双方を含むすべての存在が無に帰した状態を想像してみよう」→ここから出発して「実存する」という動詞を理解すること

「非人称、匿名ではあるが、消化することのできない存在のこのような焼尽、われわれはそれをある(il y a)という語で表現する」(p. 215)。

「夜こそがあるの経験そのものである。諸事物の形式が夜のうちで解体するとき、事物でも事物の性質でもない夜の闇が、ある現存のごとく侵入してくる。われわれをかかる現存に系縛するもの、それが不眠である。」(p. 216)

「不安は、何も接近せず、何も到来せず、何も脅威をふるわないという事態に由来する。この沈黙、この静謐、この無感覚が、絶対的に無規定な無言の脅威と化すのだ」

「このえたいのしれない侵略を前にして(…)我々は曝されている。すべてに対して私は無防備だ。」(p. 218)

「あるがそっと触れること、それが恐怖だ。(・・・)意識をもつこと、それは、あるから引き剥がされることだ。」

「恐怖はいかなる意味でも死への不安ではない。(・・・)恐怖のなかで、主体はその主体性を、私的実存たるその能力を剥ぎ取られる」「あるとは死の不可能性であり、また、実存が無化されても存在する実存の範疇なのである」

「殺すことは、死ぬことと同様、存在からの出口を探し、自由と否定が作動するような場所へと赴くことである」(223)「死体、それは恐怖を抱かせるものだ。死体はすでにおのれのうちに亡霊を宿しており、亡霊として自分が回帰することを告げている」(223)(シェイクスピア悲劇)

ハイデガーの不安(「死に臨む存在」)との違い「恐怖は、存在することへの恐怖であって、存在しなくなることへの恐怖ではない」(p. 225)

無を存在の限界として考えるのではなく、「間あるいは中断として考えることはできないだろうか。忘却、存在の一時停止、エポケーの力を備えた意識は、それが融即している実存をも一時停止させるのではないか」。→ 名詞的なものの出現。hypostase(範疇転換。-stase:留まること。その「リズムなきリズム」)

Cf. 「時間と他なるもの」(1946)
・一切の肯定と否定が可能になるような力の場(p. 241)
・範疇転換という出来事は現在である。裂け目である。現在は裂き、かつ縫い合わせる。それは始まる。現在は始まりそのものである。
現在は自己への系縛である(251)にもかかわらず、いやだからこそ、現在は自己自身のうちに巻き込まれ、それによって責任というものを知り、「質料的なもの」(matérialité)に転じる。

・「・・によって生きること(享受)」
ハイデガーの<道具的存在者(Zuhandenes>〔目的・手段の連関に関係〕

食べることの究極の目的は、食べ物のうちにある。花の香りを嗅ぐとき、この行為の目的は香りに限定される。散歩すること、それは外気を吸うことであるが、その目的は健康ではなく空気である。世界における私たちの実存を特徴付けているのはさまざまな糧である。脱自的実存――自分の外にあることーーではあるが、対象によって限界付けられた実存なのだ。

「対象の吸収ではあるが、対象との隔たりでもある。享受することには、本質的に知識が、明るさ〔感覚〕が属している。かかる知識や明るさゆえに、主体は、供される糧を前にして間隔をあけ、実存するために自分に必要な対象総てと距離を保つ。Hypostaseゆえの純然たる自己同一性におちては、自分自身のうちに嵌まり込むのだが、それに対して、それにたいして、世界のなかには、自己への回帰のかわりに、「存在するために必要なすべてのものとの関係」がある。主体は自分自身から身を引き離す。光がそのような可能性の条件である。その意味では、私たちの日常生活はそれだけですでに初めの質料性から解き放たれるひとつのしかたであろう。この初めの質料性によって主体が完成したのだが。そでにそれは自己忘却を含んでいる。「知の糧」の道徳が最初の道徳である。最初の自己放棄である。最後のではなく、そこを通過しなければならないということだ。」(「時間と他なるもの」p. 259以下)