廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

レヴィナスからデリダへ、デリダからレヴィナスへ

小レポートより
・「顔」とインターネットについて→ デリダ。「他者を受け入れる」ことにおける「公共空間」と「私的空間」の関係の混乱
・障害と他者の身体感覚
・障害と「共苦」の問題
・自画像と鏡
・食べること:「イリヤ」と「自他意識」
・享受によって「価値」が、顔によって「言葉」が構成される。
自分が感覚を一挙に失ったらどうなるか。生まれつき耳の聞こえない人の原印象
・「殺してはならない」暴力的な命令であると同時に自他の関係性。それにより自己の存在を否定しないための防衛。他者の存在を認知するときに、殺す可能性を内包したうえで、それを他者に禁じるという責任
・マッハの絵。他人の視点への切り替えの自明性を止めること。
障害の哲学は洗脳のようだ。
・「認識することが他者への応答」全面的な責任の意識とキリスト教的な犠牲。
・認識は他者との関わりを前提とし、顔は社会との無意識的な交流である。
キリスト教における「顔」の表象。
・「殺す」ことと「無視すること」のギャップ。それらは自身という主体の死を前提としないか。
現象学の志向性という「自由」と相対主義の乗り越え。
・顔と「自己否定」について。顔は動物にも適用されるか。
レヴィナスウィトゲンシュタイン
レヴィナスと「同上」との違い。
・「ある」は、「存在」と「無」の対立では思考できない。
「闘争」の抑圧。自他の非暴力的な働きかけの背後の暴力性。
・「顔」に対する恐怖感。「顔」という概念を肯定的に考えたい。自他の相互性。
・マッハの絵はほんとうに自画像なのか。
現象学的他者論について:現象学的システム論の発想。
フッサールの他者論
他者の「他性」:他者はそれとして現前しない。直接現前せず、「付帯現前化的」あるいは「類比的」にしか現前しない。
アポリア
・他者は定義上、私には現前しない(他者の他性)
・しかし他者は「私と同じように」こころを持つ、と類比的に統覚されるから他者である(他者=alter ego。もうひとつの自己。分身)

「あたかも私が<そこ>にいるかのように」

・他者については「現れる」とも「現れない」とも言えない。現れないえないものの現れとしかいえない。
・しかしそのような「現れ得ないものの現れ」をどのように語るか。
→ 他者はたしかに「直接」には現前しない。「媒介」をはさんで、間接的に、「斜行的に」(メルロ=ポンティ)現れてくる。

どのような「媒介」があれば他者の現れを記述することができるだろうか。全体性と無限の「差異」、自己と自己の時間的・空間的ずれ(差延)として現れる(デリダ)。自己の身体をとりまくシステムの「ずれ」「脱中心化」によって現れる。

たとえば障害を持った人が、自他の差異においてではなく、単純に「ひと」として現れてくるような瞬間がないだろうか。
———
2)デリダレヴィナス批判の方向性
・顔に対する応答と責任
・「第三者は他人の目をつうじて私を見つめる」=正義の可能性

デリダ:顔に対する対面関係を、第三者がひそかに媒介していること。これはレヴィナス的な「責任」が非決定性にさらされ、「無責任」へと倒錯することを示してはいないだろうか。一般に他者を無条件に受け入れなければならないという命法は、それ自体倒錯する可能性をはらんでいないだろうか。顔の「無限」性はつねに有限性に蝕まれているのではないだろうか。
これは「アポリア」(袋小路)である。しかしそのようなアポリアを耐え忍ぶことによって、新たな決定が、既成の規則を逸脱するかたちで、他者から到来するのではないだろうか。


参考文献
フッサールデカルト省察』(岩波文庫)『間主観性現象学』(全3巻、ちくま学芸文庫
レヴィナス『全体性と無限』(岩波文庫)『存在の彼方』(講談社学術文庫)『時間と他者』(法政大学出版局)『実存から実存者へ』(講談社学術)
デリダ「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』所収)
デリダ『アデュー』『歓待について』
メルロ=ポンティ「他者の知覚と対話」(『世界の散文』所収)
——
小泉義之レヴィナスーー何のために生きるのか』
吉永和加『<他者>の逆説——レヴィナスデリダの狭き道』(ナカニシヤ)
港道隆『レヴィナス』(講談社
小手川正二郎『甦るレヴィナス』(水声社
関根小織『レヴィナスと現れないものの現象学』(晃洋書房
宮本省三『リハビリテーション身体論』(青土社
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