廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学演習II

まえがき
芸術作品について語ることは、芸術を「イラスト」にして自分について語ることではない。「芸術の鑑賞は自由だ」と考える人も多いが、そういう人にかぎって、出て来る言葉は画一的である。この画一性を壊すためには、「感性的なもののロゴス(言語、意味、真理、論理)」をなぞるような言葉に触れることが助けになる。そうした言葉に、いちど徹底的に身を委ねること。そのとき見えてくる風景がある。この風景が、今度は作品のなかから「見えないものを見えるようにしてくれる」のである。芸術と言葉は、おなじひとつの「体験」を核にしていることもあるのだ。そのどちらも、すぐには現れてはこない。言葉が自壊して語り得ぬものに触れること、イメージが飽和して、見えないものにまで届くこと、この二つの運動が「同時」に起きる経験が重要になる。両者のたえざる往復運動が必要なのだ。
 芸術をたんなる思想のイラストにすること、感想の「プレゼン」の技術のみを磨くこと、そのどちらもこうした「パトス」にあふれた体験からは、とてもとても遠い。
 だがこれは「深い自己」へと沈潜することだけではない。メルロ=ポンティが「超越論的主体は間主体性である」と述べたように、こうした体験においてこそ、他者との関係が「見出される」、いや「制作される」。「見出される」というのは、それは「いまここ」にある風景の細部に分かち合いの契機が眠っているからである。「制作される」というのは、それはしかしほっておいたら眠っているだけであって、いわば能動的な「プロセス」によって作り出されなければならないからだ。記憶のイメージを呼び起こすことも必要になるだろう。それもまた、「あたかも自発的に現れたかのようにして呼び起こす」ための身の構えが必要なのだ。この身の構えは、いまここにいる他者たちを「見出す=作り出す」ことにほかならない。
 だから芸術についての言葉が「主観的か客観的か」などと問うのはやめよう。これは社会的倫理が押し付けてくる命令に屈することである。芸術とは間主観性の現れ、という出来事なのだから。

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メルロ=ポンティ、「セザンヌの疑惑(懐疑)」、『意味と無意味』(原著1948)所収、みすず書房。« Le doute de Cézanne », in Sens et non-sens, 1948.

概要:
メルロ=ポンティ初期の代表作であると同時に、晩年に至る彼の主題を凝縮した小論。セザンヌが「摑もう」とした「モチーフ」とは何だったのか。セザンヌの「(もろいかもしれない)生と作品」との関係はどのようなものなのか(生の「結晶化」としての作品?)。「世界を表現すること」とはどのようなことなのか。そのとき心理学や精神分析はどのような役割を持つのか。以上をとおして、現代における「身体による制作プロセス」の可能性を問う。
Cf. 「私たちは物そのものを見る。だがそれゆえに私たちは見ることを学び直さなければならない」(『知覚の現象学』)

付記:
・この作品や思想家による絵画論のモデルである。リオタール『ディスクール フィギュール』(法政大学出版局)、ドゥルーズフランシス・ベーコン 意味の論理学』、フーコー『マネ論』、その他ディディ=ユベルマン、マルディネの著作など、メルロ=ポンティに影響を受けた論考は多い。
セザンヌ自体、マティス、ブラック、クレー、ジャコメッティフランシス・ベーコン、そして「環境」や「自然」との関係を問うインスタレーションなどの現代アートなどに引き継がれている。また、絵画にとどまらず、写真、彫刻や建築、コンテンポラリーダンスなどにも応用できるだろう。また「幼児」や「障がい者」の「表現」を、否定的でないかたちで理解することにも資するところは多い。

読解上の注意点:
メルロ=ポンティの思想は一般に「螺旋状に進む」と言われ、ある一つの「テーゼ」を論証する、というかたちにはなっていない。はじめにセザンヌの「生と作品」という問題が問われ、それに最終的なこたえが与えられるのは最後である。一種の辛抱強さを要求することをあらかじめ了承のこと。。
・美術史の授業はしないので、セザンヌの作品などについては、画集などを適宜みること。また現代の展覧会などもよいだろう。田原桂一光合成」with 田中泯、2017年9月9日[土]-12月24日[日]。セザンヌの作品はブリジストン美術館で見られる。セザンヌの言葉はガスケ『セザンヌ』(岩波文庫)などが創作的な古典。他にバルザック『知られざる傑作』(岩波文庫)などもよい。

議論の流れ:
1 セザンヌの「障がい」と作品。芸術は病的なものの現れだ、という解釈にどう反論するか。Cf. 「グレコは乱視だから細長い身体を描いた」のではなく、「細長い身体を描いたから乱視であった」と考えるべき(『行動の構造』302頁)。
「彼の作品の非人間的性格」(12)

メルロ=ポンティはむしろ「作品の持つ積極的な意味」を問う(12)。

2 (p. 12-14)セザンヌの作品史の概要。
印象派を通過、しかしそれに「堅固さ」と「物質性」を与える(14)cf. 「ヴォリューム感」(『眼と精神』)

3.セザンヌがかかえこんだパラドックスは何か。(14)彼の絵画のデフォルマシオンの秘密は?(15)

4.混沌と秩序、感覚と思考の対立を越えて(16)

5. 遠近法と現代心理学(ゲシュタルト心理学)→これは『知覚の現象学』の「奥行き」の節、『眼と精神』と関係。デッサンと色彩(18-19)他者の「精神」はどこにあるか(19-20)

6. 「非人間的自然という根底(土台)」20

7.科学と風景(21)

8. モチーフ、「この世の一分(世界の一瞬)minute du monde」とは? 
「表現作用」(22)をどのように理解すべきか。

9 「表現」とは 24
・尽きることなきロゴス、世界が「触れる」、作品は鑑賞者を作り出す(25)
セザンヌの作品はどのように「永久の獲得物」たりうるか(26)

10. 生と作品の循環。「作られべきこのような作品が、このような生を要求した」(27)

11. 自由はどこにあるのか?28-29

12. ヴァレリーのレオナルド・ダヴィンチ論

13.「象徴」とは何か。30-32
「自由の絶頂にありながら、まさしくその点で、彼は、かつてのままの幼児であった」(32)

14. フロイトの解釈はどこに位置付けられるか。「あいまいな象徴」(33)

15. 過去と未来の循環(34)

16.「彼はこの世の中で、キャンバスのうえに、色彩によって、おのれの自由を実現しなければならない」彼はおのれの価値の証を、他人に、彼らの同意に期待しなければならぬ、それゆえに彼は、おのれの手のもとで生まれ出る絵に問いかけるのであり、おのれのキャンバスにそそがれる他人のまなざしをうかがうのである」(35)