廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学演習II

今日の問い
1)「物は、(…)いわば、ひそかに、内部から照らし出されているのであって、光がそれから発している。そして、このために堅固さと物質性という印象が生ずるのである」(14)
2)セザンヌパラドックス。「感覚を離れ去ることなく、直接的な印象のなかで自然以外のものによって導かれることなく(…)現実を追求する。..現実を目指しながら、それに至りつく手段をおのれに禁じている」(15)→デフォルマシオン
3)感覚か知性か、という二者択一を乗り越えること。P. 16全体について考えること。
以下予定:以下を2項目ずつ担当。
(1)p. 16「遠近法における」—p. 19「セザンヌは、物や顔の」の前

(2)p. 19. 「セザンヌは物や顔の」—p. 23 :「レオナルド・ダヴィンチ」の前

(3)p. 23「レオナルド」からp. 26. 「かくして、「遺伝」」の前

(4)p. 26. 「かくして、「遺伝」」からp. 29:「つねに」の前

(5)p. 29. 「つねに」からp.32の終りまで

(6)p. 33から終りまで
やりかたの例。P. 16について:
1)まとめ
 前段でメルロ=ポンティは、「セザンヌパラドックス」「セザンヌの自殺」について語っている。それは「感覚を離れることなく(…)現実を追求する」「現実を目指しながら、それに至りつく手段をおのれに禁じている」(15)というパラドックスである。それが彼の絵画に特有な「デフォルマシオン(deformation)」を生み出している。
 だがこのデフォルマシオンはどのような積極的な意義を持つのか。そこでパラドックスはどのように「作動」しているのか。混沌と秩序、感覚と知性という(カント主義的な)区別ではそれを語ることはできない。これが「セザンヌの懐疑」である。
 しかしこの「懐疑」は、あらたな「現象」の領域を切り開く。それは「まなざしのもとに現れる固定した事物」と「それらの捉えがたい現れ」が一体であるような現象である。それは「形をなしつつあるマティエール」「自然発生的な組織化によって生まれ出る秩序」というものである。
 このことは「自然」と呼ばれる「根源的世界」へと私たちを導く。事物の近くと、それについての相互了解は、自然的事物をとおして設立されるのだ。

2)コメント(問い):
 ・「パラドックス」は作品の中で解消されてしまうのか。むしろ「現象」において、「作動」しているのではないか。そこでは「存在」と「現れ」が一体である。「形態化」「秩序の誕生」という「プロセス」が取り出されていると言える。

 ・「自然」「根源的世界」と呼ばれるものの「現出様式」としての絵画。自然そのものは「現れる」のだろうか。あるいは「隠れつつ働いている」のだろうか。

・このプロセスの媒体となるのはセザンヌの「身体」であることはあきらかである(印象派を通過)。このプロセスをにない、「現実」を志向している身体的な志向性ないしは「作動的志向性」(「作用的志向性」と区別される)が考えられなければならない。

残された問題:
・「現実」と「自然」との関係はまだ曖昧ではないか。
・作動的志向性と「科学」との関係。ここでは前者は後者の「土台」として考えられている。
・「野蛮人のごとく描こう」としたのではないことの意味。プリミティヴィズムではない。「野生の存在」(『見えるものと見えないもの』)にどのような位置づけを与えればよいのだろうか。