廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

セザンヌの懐疑6:未来完了の書き込み

「しまった、デリダラカンみたいなことを言ってしまった」
「そういうのはもうやめたほうがいいよ」
「はい」
「問題は単純で、主観的・個人的感覚が、他者に受容されて、間主観化して芸術が制度化する、
という問いの立て方は間違った問いだというだけのことさ」
「ことさ、ですか」
「だから観客も存在しない」
「またはじまった」
間主観性の問題はややこしいので、引き延ばしているだけです」
「それじゃあこんなこと書くのやめたほうがいいよ」
「メタ対話はまずいですよ」
「じゃあ説明しなさい」
「ええと、まず「セザンヌの感覚」と呼ばれるものは、セザンヌの作品が間主観化したあとに
のみ、そのように意味付けられるものです」
「そりゃそうでしょ」
「歴史的には当然だけど、セザンヌ本人にとってもそうだ、というのがみそです」
「意味づけはつねに後知恵だってことね。じゃあ、意味づけがなされる以前に彼は
何をするのだろう」
セザンヌの感覚、と名づけられてしまっているであろうものを制度の現在の中に書き込むのです」
「はあ」
「つまり未来完了的なものを現在に書き込むということであり。。。」
「百年後の未来でもいいわけね」
「いや、10秒後でも百年後でもどちらでも等価であるような未知なるものを現在に書き込むのだから
そこに量的な問題は介入しないのです」
「それでもじっさいにセザンヌの作品というものが、私たちにとってはあるわけで」
「そのときセザンヌの作品が、彼の感覚なり、彼の生なりを規定する。彼の感覚や彼の生が作品を
規定するのではなく、作品がある種の生や感覚を要求するわけです」
「そっちのほうが「感覚はない」というよりリアルだなあ」
「だから彼の感覚や生は、「作品の呼び求め」として規定されることになります。」
「まあそれはわかる」
「ついでに言うならば、彼の作品は一種の象徴となり、彼の感覚や生は、「読むべきものを与える
テクスト」となります」
「言語的なものになるわけ?」」
「そうです。セザンヌの現在には未来完了的なものがすでにある。その現在と未来の「隙間」こそが
言語的なものの萌芽なのです」
「急に脱線がなくなって疲れてきた。間主観性はどこにいったのだろう」
「テクスト論の悪口に消えました」
「消すな!」
「ひとまず言いたかったのは、ふつう自己の時間性は、制度や規範に抗うものとして想定される
ことが多いのですが、じっさいはある意味反対です。つまり、自己と自己との関係は、制度化的
ダイナミズムの場であるということです。」
「あー、デリダの『自己触発は他者触発』っていう言明も、「自己の帝国主義をむしばむ他者性」
っていう感じで受け入れられることがおおいよね。でも自己と自己との関係=差異はむしろ
「規範化的」なんだな」
「そういうことであります、はい」
「ましてやフーコーは、そこに『自由』の自己規範化を見るわけだし。なんか、デリダフーコー
以降の思考って、政治的色合いを強調することで、かえって政治性を喪失しちゃった気がするね」
「そこまで一般化はしておりませんが」