廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

授業資料(必読):セザンヌの懐疑:教科書ガイド(修正版3)

ここまでの廣瀬メモ(課題および注釈)第二版

大きな問題
1)セザンヌの「病理」と「作品」の関係。作品は病理の現れ、と考えると「自由」の契機がなくなってしまう。どう考えればよいのか。
→ このテクスト全体で考え、まとめることができるか。
cf. 生(人生)によって作品は説明されない。しかしひとたび作品が成立したら、あたかもセザンヌの感覚や生のすべてが、作品のために準備されていたかのように見えるのもほんとうである。後から意味が確定されるような、作品のダイナミズムがある。
・そしてセザンヌの作品とは、当時の「観者」にとっては少々奇異なものであっても、受容可能なものである。それはすでに模倣可能ですらある。作品そのものがみずからの意味を、見る人に与える、ということ。
→ セザンヌセザンヌになるとき、同時にそれを理解できるような他者も創設される

2)「表現」「表現作用」とは何か。明確な定義がないので、この言葉が出てくる箇所から総合できるか
3)同様に「象徴(シンボル)」とは何か。なにかの記号や概念ではない。それではなにか。

セザンヌの「作品」そのものが孕むパラドックスを理解できるか。
1) 印象派を離れることなく堅固さと持続性を与える
2) デフォルマシオンがあるが、「かたち」が現れつつある。ゆがみにおいて現れつつあるかたちがある。
3) 感性か知性か、自然かコンポジションか、プリミティヴィスムか伝統か、という二者択一を拒否すると同時に、両方を含む。

・形をなしつつある素材、秩序の誕生、「世界」の誕生(16)など:現れや生誕にかかわることがら(現象)の意義に注目できるか。

幾何学的遠近法を通過しながら、新しい「深さ=奥行き」を模索すること。そこに「くみつくしえぬもの」を見ること。→ 奥行きはどのように「現れるか」:『眼と精神』『見えるものと見えないもの』と合わせて考える。=「見えるものが見える可能性(可視性)」

・「あらゆるタッチが、「大気や光や、対象や、面や、特性や、デッサンや、様式を含んで」いなければならない」19:「部分」と「全体」の往復運動=これをセザンヌは「モデュレーション」と呼ぶ。あらゆるタッチに全体が「差し迫っている」ような印象。

_「精神は、まなざしのうちに、見られ、読み取られるのだが、まなざしとは彩色された総体にほかならない。他人の精神は、なんらかの顔や動作と結び付いた、具体化したかたちでのみ、わたしたちに示される」20 :他者の精神の読み取り。読み取られるものは、いわゆる「表情」とは微妙に違うことに注意。

セザンヌの絵画の奇異性:人間がそのうえに置かれている非人間的な自然という根底をあらわにするため 31。人間と「非人間的なもの」の関係について考えることができるか。

・ 「モチーフ」とはどのように性格付けられているか、理解しているか(22)
・ 「表現作用」(22後ろから5行目,pp. 24-25)とは何か、理解しているか。

(注)レアリザシオン (réalisation):セザンヌは「感覚を実現する」と繰り返していた。

・「世界がどんなふうに我々に触れるかを見させようとする」における触覚的なものと視覚的なものの関係の交差に注目せよ。

・ 「芸術家や哲学者はひとつの観念を創造し、表現しなければならぬばかりではなく、それを、他人の意識のなかに根付かせるような経験を目覚めさせなければならないのだ。作品が成功すれば、それは、おのれ自身を教えるという奇妙な力を発揮する」この一節を長くコメントできるとよい。この「経験」はどのようなものか。
注意:芸術家が呼び起こしてはじめてこの経験が現れる=だけれどもこの経験はじつはすでにある、というパラドックス

セザンヌの絵画はどのように「永久の獲得物」たりうるか。しかも「可能なるすべての精神」において

(追加)
・自由について。メルロ=ポンティの自由観は、一般に言うような意識的な選択とか、無からの創造の自由ではない。それは「両義的」だと言われている。その両義性についてまず理解する。とくに受動的な部分(身体によって世界に投げ出されていること)に注目すること。受動的でありつつ自由であるとは?
◯ 私たちは身体によって世界に投げ出されている。それはすでに構成された世界である。しかし私たちは、世界をさらに探索することができる。その意味では世界はまだ構成され尽くしてはいない。これをメルロ=ポンティは「条件付けられた自由」「内部と外部の出会い」として思考する。これを具体的にどうイメージするか。状況に条件付けられながら、自由のための隙間のようなものを開いていくこと。状況に内側から歪みを与えること。
例)地平線に囲まれているイメージ。