廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究6 セザンヌの懐疑 メモ2

セザンヌの懐疑メモ、その2
・シンボル:病的なものの「記号」ではない(意味との「差し向かい」ではない)10
セザンヌの「デフォルマシオン」について。生まれつつある秩序、根源において捉えられる自然(16)として

・「奥行き」について。この問題についてメルロ=ポンティは『知覚の現象学』の空間論でも取り上げるが、とくに晩年において、「奥行きは第三の次元ではなく、第一の次元である」(『眼と精神』)とする。それは
・奥行きとは、見える世界の「端」でかいま見られるものであるが、見えるものに含まれているもの、さらには見えるものの構造を支えたり、さらには構成したりするものである。
・それはだから「無」ではなく、見えるものの「表情」として現れる。表情とは、物の肌理、色彩のコントラスト、物の「雰囲気」などであり、そのひとつひとつが、物全体、世界全体の「表現」となっている。
・身体はまさにこの奥行きにすっかり包み込まれている。身体自身も見えるもののひとつとして「見る」。
・何を見るのか。見えるものを見えるようにしている「働き」(それ自体は見えない「可視性」)こそを、見えるようにする。「根源的に現前しないものの根源的な現前可能性」(『見えるものと見えないもの』)
・それによって身体が「動くこと」ができるような場が感じ取られる。
(cf. 家高洋『メルロ=ポンティの空間論』大阪大学出版会)

・モチーフ:生まれ出ようとする有機体(22)風景が私の中で思考する(22)
→ いわゆるミクロコスモスとマクロコスモスの照応? しかしセザンヌは有限な身体でありつづけるし、失敗することもある。
メルロ=ポンティにおいて絵画は「騙し絵」ではない。あらかじめ他者と共有されているもののコピーやイリュージョンを作り出すのではない。むしろ他者と共有されるかもしれない「何か」を作る、何かが現れてくるような「隙間」「隔たり」を穿つ。
・表現 p. 22, 24, 27。これと「言語」の問題がかかわる(最初の人間が語ったように語る=これをメルロ=ポンティは「語る言葉(parole parlante)」と呼ぶ。言葉が言葉になる場であるような「隔たり」=同時に世界が「語ろうとしていること」を「取り上げ直す」

時間論について
・未来と過去との交換関係。そのあいだにさまざまな反響や暗示や繰り返しやつながりがある(33-34)
しかしそのような交換関係は、あるひとりの人間にどうやって組み込まれたのか。なにか「根源的な出来事」があったのか。しかしそれを探究すればするほど、出来事の意味は重層化していく。シンボルは多義的になっていく(フロイトの多元決定)

cf. フロイト「正夢について」
フロイト現象学)が問うている「根源的出来事」とは、前客観的な次元を創発する出来事であり、回顧的な問いかけに裏打ちされてのみ「意味」をあらしめるような出来事である。その出来事はそれが「現実」であるか「虚構」であるかとは無関係に「ある」。多数の解釈を引き起こすかぎりで唯一性を持つ。これが現象学のいう「地平」の「根源的創設」である。





出席者コメントより
・生の循環運動について。象徴があり、生の歴史のつながりから、一貫した方向付けを見出しながら自由があり、微妙な差異をうみつつ、くりかえされるありかた。他者もキャンバスをとおしてのみ(差し向かいでなく)かいま見られる。
・直線的な規定ではなく、取り上げなおしが至る場面で可能。とりあげなおすという行為によって生まれる「ずれ」がそのときの自己の変化とも言え、目に見えることのない自由の獲得だと(あとで)わかる。
・循環:変容していく自分自身のこと、そこから過去や未来が結び付いていくというイメージ
・選択するその瞬間、一瞬のみがつねに不確かなものとして、眼に見えず、存在する自由が現れるときであり、上方へと移行するスパイラルのなかで自由を通り過ぎ、追い追われている(つかめない):

・自分自身そのものは運命的、受動的に与えられるものという前提 → 生まれの現象学。「私が私に与えられている」(『知覚の現象学』他者の章)
・自由とは「選択」なのか?
・作品を完成させることは不自由なのか

因果関係を毀し、関係性を別のしかたで構築することで、その二者のあいだにある厚みのある間に意味の生まれがあり、自由がある。
・過去とつながりつつつながっていない自己の連関のなかで、その瞬間毎に選択を行っている。

精神分析学が明らかにしてくれることは私たちを自由にするのか
・自然科学の因果性の必然的関係性を肯定的にとらえて昇華している哲学者はいるのか?