廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

言語理解における「こだま」と「ゆがみ」

コメントより

・二つの言語:「あえて言えば」「二つの言語があると言ってみよう」

・「事後には」(après coup)。

メルロ=ポンティは別のところで「真理の遡行的運動」(ベルクソン)について語る。真理が真理であるためには、新しいものとしての意味が、いわば過去に遡って、あたかも初めからあったかのようになる。そのせいで、言語の創造性はいわば「忘れられて」しまう。<未来に向けて新しい意味を投げ出す>ことと<それをそれまでの世界に根付かせる遡行的運動>がカップルになって真理は真理になる。

 またフロイトは「事後的な効果」についても語っている。

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こだまとは、お互いを求め合うような精神的で切実な意味を持つもの」「どっちからのものかわからない」「相補的で相互的な依存関係」→ 繰り返し読むなかで積み重なっていくさま。同じものの反復ではなく、戻ってくるときには違うものが貼り付いている(ドゥルーズ『差異と反復』におけるニーチェ永劫回帰論の解釈)

「共通な意味の地盤にいると私に信じさせてくれた」(180)→これは前提されているわけではなく、読書行為そのものによってのみ確認される。しかも、そこで新たな意味ができることもあるから、共通な場はたえず作り直されている。

メルロ=ポンティの議論は、外国語のばあいはどうか。翻訳のプロセス。「地平の融合」(ガダマー)

 

  • 今日考えてみたい問題。

1)「同じ動作で、受け取りも与えもする」

2)「本は記号をその通常のいみから逸らせたたのであって、さまざまの記号は、私がいま追いつこうとしているまさにその別な意味に向かって、旋風(渦巻き)のように私を引きずっていく」(180):「自己と他者」

3)スタンダールの例。

「ひそかにゆがめられている」181

密使182

五〇年間のモノローグ

 

「表現の瞬間とは、関係が逆転し、本が読者を所有する瞬間なのだ」182

→ 「話された言葉」と「話す言葉」再説

 

スタンダールの言語が「道具」として獲得される。

「真理の体内化(incorporation)」(フーコー『主体の解釈学』)

 

パロールとそのこだまとの「共犯」(183)

 

対化(対になる)Paarung フッサールデカルト省察』第五一節のことば