Cf.「言語の病理」、『意識と言語の獲得』、pp. 76-83
・概観。常態と病態はまったく同一でも、まったく異なったものでもない。
・言語性幻覚(hallucination verbale)
ダニエル・ラガーシュ『言語性幻覚と発話行為(パロール)』の記述
Dépersonnalisation : 他者は、私自身のアンビヴァレンスから私を救う。
すべてのパロールは二人がかりの活動だ。
幻影肢との関係と身体図式
常態とは?→「障害」をpositifに理解すること。
『世界の散文』における同じ問題の分析と比較してみよう。とくに「心理学」が言いそうもないものに注目して・・
これまでの分析と病理的な現象 189-193
話すこと:
・開かれた関係に入り込む、
・傷つきうる者となること
・幻聴(言語的幻覚hallucination verbal)の例
→ ノーマルな言葉も、「病的なヴァリエーション(変奏)」が可能
言葉(パロール)の中心に「錯誤=疎外(aliénation)」を可能にするものがある。
・心理学が「キネステジーの障害」と呼ぶものについて
心理学者の答え「他人との境界がない、能動と受動、自己と他人との区別を維持できない」=身体、他人との関係の障害と結び付いている。
→ 「だがその結びつきをどのように理解したらよいのか」(190)
「身体が思考を盗み取る」(190)
「他人にさらされている」(191)
・行為と知覚の関係。→ 本来はひとつだが、「反省」的思考には分かれてしかとらえられない。
・相手の人物そのものを目指す。
・私の言葉は、行為の器官であると同時に、感受性の器官でもある
いわゆる「言葉の同調」というもの。そのためパロールは、その尖端に眼をもっている(191)
・言説(discours)が私のうちで語られる、言説が私に尋問し、私が反響する(問いかける)、私を包む、私に住みつく(191)→「言語の生命」というべきものに近いか?
・「もう一人の私自身」(192)→ もう一人の私自身の「攻撃性」は?→下記
「我」は、みずからのうちにこうしたdépersonnalisation〔人格の喪失、離人〕の萌芽をもっているからこそ、パロールをもっている。いわゆるデカルト的「自我」も、自我が自我があるためには、このようなdépersonnalisationを内包している。
・私自身との関係や他人との関係の脈動(pulsation)である。
・「もう一人の私自身」について→ 「マキャヴェリについての覚書」の一部を読む。
・「モースからレヴィ=ストロースへ」の神話分析