廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

根源的闘争の原理の彼方に──マキャヴェリ

はじめに

シーニュ2』に収められた「マキャヴェリについての覚書」はメルロ=ポンティ一九四九年の論文。メルロ=ポンティは一般に「共存」の哲学者として知られるが、この論文ではめずらしく「根源的闘争」の場としての政治の場から、いかに「集団的生活の絆(結節点)」が生じるかが、一六世紀イタリアの政治哲学者マキャヴェリを例に語られている。

マキャヴェリの『君主論』は、政治的な闘争における権謀術策の手管、現実主義的で非道徳的で残酷な政治哲学の書として知られる。しかしメルロ=ポンティは、そこから、たんに形式的な「モラル」とは異なる、新たなヒューマニズムの可能性を模索するのである。

 

メモ

・それは彼が集団的な生の絆を記述しているということだ。そこでは純粋な道徳は残酷なものになりかねず、純粋な政治のほうは何かしら道徳のようなものを要求する。

・集団生活は地獄なのです。

マキャヴェリの「統治」は強制でも説得でもない、「籠絡」である。

・権力と個人の根源的な(判断以前の)同意。オピニオンの結晶化としての権力。「絶対に確かな権力などなく、世論=臆見オピニオンの結晶化しかない。それが権力を許容し、確実なもの〔=獲得されたもの〕とみなすのだ。この合意が解体するのを避けるのが問題だ。この合意は、どのような強制の手段を用いようとも、ある危機の臨界点を超えてしまうと、わずかな時間で崩れてしまうからだ。権力とは暗黙のもの(tacite)の領域にある。」

・純粋な道徳がはらむ暴力、一見残酷な支配が残酷ならぬ結果をもたらすこと。「マキャヴェリは、このような緊張と弛緩、抑圧と合法性の交替を正確に表現している。権威主義的な政体はそうした秘訣をわきまえているが、こうした交替は、さも優しそうなかたちをとって、あらゆる駆け引きディプロマシーの本質をなしているのだ。」「マキャヴェリは人類の始元を示す。それは集団的な生活から、権力が知らないあいだに、そして、権力が諸意識を誘惑しようとするという事実だけによって出現してくるのだ。」

→ そのような状況において、どのように歴史的な行為(表現)をなすか。その行為はどのような「価値」を造り出し、制度として結晶化させるか。「起源にある残忍さが乗り越えられるのは、おたがいのあいだに、共通の営み(oeuvre)と共通の運命による結びつきが打ち立てられたときである。そのとき個人は、権力にたいしておこなう贈与そのものによって力を増し、個人と権力のあいだには交換が生まれる。」「社会的権力の起源に紛争と闘争を置きはしたが、彼は合意が不可能だといいたかったわけではなく、欺瞞的ではないような権力、共通の状況への参与であるような権力の条件を際だたせようとしたのである。」

 

2 根源的闘争の原理の彼方に──マキャヴェリ

 

シーニュ』という論文集では一九四七年のモンテーニュ論のすぐ後に、一九四九年の『マキャヴェリについてのメモ』が配置されている。自己を解読し続けるモンテーニュから、権謀術策のレアリストの政治思想家マキャヴェリへの移行は一見ひとを驚かし、またこれらのエッセーはメルロ=ポンティ研究においてあまり引用されることはない。

しかしどちらも、デカルト以前の「主体存在」への問いかけであり、またデカルトには吸収されない可能性を秘めている点において、メルロ=ポンティにおいて重要な存在であった。モンテーニュが懐疑の徹底化によって、それを世界信憑に変え、臆見に満ちた公共世界へと回帰したように、マキャヴェリは「根源的闘争」から成る政治生活から出発し、「複数の生」における真理の試練について語ることになるだろう。

 

根源的闘争としての政治

マキャヴェリは、政治生活や集団生活、すなわち他者たちとの関係に「根源的闘争」があること、そしてこの闘争はけっしてなくならず、あらゆる権力がそれに脅かされていることから出発する。そしてこの根源的闘争の世界は、自己と他者との共存というよりは、モンテーニュ以上に激しい恐れと残酷さの支配する世界である。

 

私が恐れを抱くのと、ひとを恐れさせるのは同じ瞬間においてであり、私が自分から退ける攻撃と、私が他人に差し向ける攻撃は同じものであり、私を脅かす恐怖と私が振りまく恐怖は同じものである。私は私が引き起こす怖れにおいて自分の恐れを生きる。だが反作用によって、私が原因である痛みは、私の犠牲者と同時に私をも引き裂くのである。だから残酷さは解決ではなく、つねに再開されなければならない。

 

恐怖を与えることと与えられること、攻撃することとされること、これはひとつの運動であり、他者に対する暴力は、同時に自己を引き裂く。この二重の運動はけっして止むことなく、つねに繰り返される。したがって、自他の根源的闘争は、同時に自己と自己との闘争であり、想像的分身との闘いなのである。

 

犠牲者が負けたと告白するとき、残酷な人間はこの言葉を通して別の生が脈打つのを感じ、もうひとつの自分自身に対面するのだ。(S, 345)

 

自己の統御の下に屈したと思われた他者の身振りや告白が、<もうひとつの生>の閃光のごとき発生を経験させる。そのとき自己はもうひとりの自己としての他者に対面させられる。これが残酷さを通した他者との絆の萌芽なのだ。

だから「根源的闘争」と呼ばれるものは、たんなる力と力の闘争ではない。マキャヴェリが目指す君主の統治も、それに対する強制的支配ではないし、ましてや、個人の差異をなくしてしまうような権力譲渡(後の社会契約)の結果でもない。だからいかなる権力も原理的に不安定であり、超越的な原理によって支えられることはないだろう。

マキャヴェリが純粋な道徳による統治を退けるのも同じ理由からである。純粋で「リベラル」な道徳が残酷なものとなることもあるし、現実主義的で経験主義的な政治が道徳的なものを生み出すこともある。したがってマキャヴェリが記述しようとしたのは、根源的な闘争の彼方、道徳と不道徳の彼方にある「集団的な生活の絆」なのだとメルロ=ポンティは言う。だが他者に与える暴力がみずからを引き裂くとき、それはどのようにして集団化へと導かれるのであろうか。

 

仮象政治学と歴史的行為の真理

権力が支配の原理や社会契約に基づかず、決定的に根拠付けられることがないとしたら、「君主」の行為はどこにあるのか。ただし念のために付け加えておくならば、メルロ=ポンティマキャヴェリの「君主」において追求するのは、マルクスの実践に(解決されることなく)引き継がれるような「歴史的行為」の価値の問題である。根源的な闘争の世界において、歴史的意味を沈殿させるような、個人的ないし集合的な行為はどのようなものか。これがメルロ=ポンティの一般的な問いである。

絶対的な絶対的な権力などもなく、完全に根拠付けられた権力もない。あるのは「世論=臆見オピニオンの結晶化」だけだとメルロ=ポンティは言う。結晶化した世論が権力を容認する。だがそれもまた束の間のものにすぎない。結晶化とは、権力に対する肯定と否定との微妙な均衡において成立するものだからだ。そしてそれは「判断」の次元に先立つ根源的な臆見である。

 

権力は批判と否認、議論と不信を隔てる隙間に打ち立てられている。主体(=臣民)と権力の関係は、自他の関係と同じく、判断より深いところで結ばれる

 

だから君主がなすべきなのは、法による支配でも、現実の容認でもない。「各人が神秘的にも各人に似ているような社会では、ひとりが不信を持てば他の人も持ち、ひとりが信頼すれば他の人も信頼する。純粋な強制はないのだ。」

ではどうすればよいのか。強制とは異なる形で共同的生活を支えるものをどのように創設すればよいのだろうか。「政治」という固有な場において、どのように真理を見出せばよいのだろうか。社会権力の起源に相剋と闘争を置くことによって、マキャヴェリまやかしでない権力、共通の状況への参加という権力の条件を示そうとしたのではないか。これがメルロ=ポンティの問いなのである。

しかし根源的闘争の世界は、自己がみずからの分身と戦う仮象の世界にほかならなかった。そこに「歴史的行為」を立ち上げることは何をもたらすのだろうか。

 

優しさを残酷さに変え、厳しさを価値あるものに変えるのは(中略)、権力の諸行為が世論のある状態に介入し、その意味を変えるからである。それは並はずれたこだまを響かせることもある。一般的な同意の固まりにひそかな裂け目を開いたり閉じたりし、事態の流れ全体を変化させうるような分子的プロセスを開始するのだ。丸く配置された鏡が、小さな炎を夢幻劇に変えるように、権力の諸行為は、意識の布置に反射して、形を変え、反射の反射がある仮象を創出するが、この仮象こそが要するに歴史的行為の真理なのだ(p. 351)。

 

おたがいがおたがいを映し合うような仮象の世界において、ひそかな裂け目を開いたり閉じたりすること、それが判断以前の「同意」に「分子的プロセス」を導入し、「事態の流れ全体を変化させる」こと、これが君主の「歴史的行為の真理」なのだ。

 

だから君主は自分の言葉や行為が呼び起こすこだまの感情を持たなくてはならない。これらの証人と接触しなければならず、そこから権力全体を受け継ぐのだ。だから見者として統治してはならず、みずからの力量(virtù)からも自由でなくてはならないのだ。

 

フーコーなら「権力諸関係」と呼んだような、相互的で不安定な仮象の世界において生じる裂け目、それはナルシスに応えるエコーのように、政治的生活にこだまを響かせる。このこだまを感受すること、能動的な「力量」だけではなく、いわば権力諸関係に「自由の余地」を残しつつ、そのこだまを受動的に聞き取ること、そのとき君主の統治は「歴史的行為の真理」の証言を沈殿させることができるのだ。

 

政治的な力量とは、自分の周りで黙している観客に語り、複数の生の眩暈に捕らわれることだ。これは気に入られることを求めようとする意志と、残酷さのあいだで、すべてが合一するような歴史的企てを抗争することだ。これは、他人との関係に一挙に身を置くことで、道徳的な政治のような転覆を受けない。だが、この他人は彼にとって未知なのだ。

 

「複数の生(la vie à plusieurs)の眩暈」に捕らわれること、これが歴史的行為を遂行するための前提なのだ。純粋なモラルや善行でもなく、純粋な道徳でもない行為、これは未知の他者たちの直中にあえて入り込むこと、あるいは新たな他者たちの到来を待ち受けることにほかならないだろう。それは「同意の塊」における「ひそかな裂け目」を内側から生きること、そしてそこに公共世界の証言を聞き取ることなのだ。

そのときはじめて、「集団的な生活の絆」が打ち立てられる。しかしこれが作り出す集団はつねに「裂け目」の出現に脅かされており、個人と個人はつねに距離をもって触れ合う。見るのではなく、触れ合うのだ。視覚はつねに眩暈と盲目性におびやかされている。いわばこうした<盲目的なふれ合い>こそが、集団生活の絆、政治の肉なのである。

 

力量(virtù)と運命(fortuna)

マキャヴェリにおいて理解されないのは、世界における偶然性や非合理的なものへのこの上ない鋭い感覚と、人間における意識や自由の趣向を結び付けたことにある」とメルロ=ポンティは言う。純粋な強制や能動的な力量だけではだめなのだ。

だからこそマキャヴェリは「力量」の傍らに「運命(fortuna)」を置く。しかしこれは決定論や現実への妥協ではない。予定調和的な合意をもたらすような超越論的原理を前提するものでもない。

「合意の裂け目」を生き、「複数の生」の眩暈に捕らわれたとしても、ひとは「現在の世界」が孕む可能性の中から、人間にとって「価値」のあるものの「こだま」に触れることができる。あるいは来たるべき価値の「前兆」や「表徴」を、まさに盲目性を通して、解読することができる。非合理性における合理性の萌芽に触れることができるのだ。

こうしてメルロ=ポンティマキャヴェリを通過することで、新たな人間学、新たなヒューマニズムを模索しているとメルロ=ポンティは考える。たしかにそれは「不正でないような政治の条件」「まやかしではない権力」のみを示すペシミズムに留まることもあるだろう。しかし仮象の世界における裂け目に留まり、そこに立ち上がる判断以前の真理を表現にもたらすならば、それは新たな集団へと結晶化し、新たな人間性の萌芽を生み出すのではないか。

そしてひとは、占星術などに頼らずとも、来たるべきヒューマニズムの「前兆」や「表徴シーニュ」を、現在の世界のローカルな布置に、読み取ることができるのではないだろうか。それはいかなる既成の価値にも基づかず、情念や臆見や動物性の泥沼に半ば埋もれながら、かろうじて輪郭を描き出されるような、生まれつつある価値のヒューマニズムなのである。こうした来たるべきヒューマニズムを可能にする歴史的行為を、メルロ=ポンティは「制度化」と呼んでいた。

 

一九六〇年二月—九月という日付を付けられた『シーニュ』への「序文」において晩年のメルロ=ポンティは、「結論すべきは反抗ではなく、いかなる諦念もなき力量(virtù)である」と語る。サルトルマルクス主義への失望に対置すべきは、諦念でもさらなる反抗でもなく、「目の前のローカルな歴史」において「かたちゲシュタルト」をとりつつある、世界の諸断片のパッチワークである。それはたしかに俯瞰的な歴史論者のインターナショナリズムからみれば、挫折かもしれない。しかしそれは断片的でありながら、根源的臆見の結晶化として、判断以前の世界における、政治的行為の真理全体を指し示してはいないだろうか。

いまこそ「世界はそのあらゆる部分において、かつてないほどおのれ自身に現前している」と一九六〇年のメルロ=ポンティは診断する。この「かたち」の生成を指でたどり、「世界の世界への問いかけ」を継続すること、これは二一世紀に生きる私たちのアクチュアリティにも鋭く突き刺さる問いなのではないだろうか。