廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

セザンヌの懐疑以降

「なんか間主観性の話で行き詰まっているのだけれど」
「そうではない、学説史なら言えるのかもしれないが、とつじょ退屈したのだ」
「はあ」
「自己と他者というタームで考えるのに退屈したというのがひとつ」
「ほお」
「それからそもそも『対話』という形式に退屈したのだ」
プラトンモデルだものね」
「それを逃れるために、一頃はやったのが『シミュラークル』だった。シミュラークルとしての
ソフィストシミュラークルとしてのソクラテス。」
「中期デリダの対話形式もそれだね」
「そう、ふたりだとだめなのだ」
「大勢で討論すればいいわけ?」
「それは考えるだにおそろしい」
「でしょ。『私たちひとりひとりが多数であった』なーんちゃって」
「3人もだめ。理由は言うまでもないけれど。」
弁証法か」
「まあそうかもしれない。ヘーゲルに失礼とも言えるが」
「2.5人って感じがいいんじゃない」
「方向としてはそうだ」
「3人にして、ひとりはひたすら黙っている、とかね」
「いい線かもしれない」
「....」
「どうした」
「....」
「どうしたのだ」
「ああ、もうおしまいだ」
「ええ!」
「てな感じかな」
アルトーっぽいなあ」
「まあ思いつきとしては、マルクス兄弟が哲学すればいいんじゃないの」
「映画か」
「昔あれを、自我、超自我、無意識にたとえた人がいたけれど」
「そういうのを賢しらという」
「そうだね」
「ただ間主観性のモデルを、マルクス兄弟から出発して考えるというのは
悪くない発想ではあるな」
「乗り気じゃないね」
「なんかフランス批評ぽくてさ。男だけというのもいかがなものか」
「まあそうだ」
「シテ、ワキ、間狂言、ってのはどう?」
「趣味としては悪くないが、やはりヒエラルキーが固定されているのが
気になる。」
「間狂言がいちばん強くて、シテが一番弱い能とか。。。ないか」
「いずれにせよ逆転の可能性が確保されていなければならない。能に
そういう要素がないとは言えないけれど。」
「それに男性中心主義とも言えないな
女性性はシテが担う。弱さも担っているかもしれない。それは面白いけれど、
証言者のワキや物語性の担い手の間狂言は男なんだな。」
「物語や証言は男性中心主義的であるってことだ」
「ほんとかな。いずれにせよ、各人が各人の役割を交代でやれがいいのだけれど。。。それをシステム化
する枠組が必要だと」
「行為の枠組、記憶を呼び起こす装置としての枠組、変容を引き起こす枠組、などなどかな」
「能にそれを委ねるのは難しいんじゃない」
「演劇でなくてもよいのだ。演劇も制度なのだから」
「制度が演劇的なんじゃないの」
「ちがう、演劇が制度的なのだ」