廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究Vイントロ4/16

モーリス・メルロ=ポンティ紹介

メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は多くの顔を持ちながら、現代の思想に生き続けている。
 主著『知覚の現象学』は今も読み継がれ、さまざまな領域(認知心理学看護学、精神医学、教育学、社会学、人類学)などに影響を与えている。彼の文章が飽きられることなくーー派手な装いはないがーーひそかに読み継がれているのは、その文章のもつ「豊饒な曖昧さ(両義性)」ゆえにあるだろう。時代ごとに彼の思想の新たな側面が掘り出される。「古典」というよりは、まさに「現代」を切り取るのに有益な文章として甦り続けるのだ。
 戦後すぐに彼はサルトルとともに「フランス実存主義」の一翼をにない『現代(Les Temps Modernes)』誌の事実上の編集者として、哲学と政治、文学、芸術などを交差させるような場を作り出していた。また身体や感覚的なものの復興をとなえながら、当時の人文・自然科学にもたえず眼を配っていたのも忘れてはならない。

メルロ=ポンティの「思想」
 そんな彼も、1961年に『眼と精神』や、『見えるものと見えないもの』の遺稿を残して急死した以後は、反実存主義的な時代風景によって読まれなかった時期もあった。いわゆる構造主義ポスト構造主義ポストモダンといった思想のゆえである。だが構造主義の始祖と言われるソシュールをはじめて思想的にとりあげたのはメルロ=ポンティであった。デリダ現象学の「脱構築」は、メルロ=ポンティフッサールを批判的に延長しようとした試みなしにはありえなかった。フッサールのテクストのなかに、いわゆる「フッサール」の先を行くような動きを読み取ることがメルロ=ポンティの課題であったからだ。ドゥルーズの思想は、ベルクソンの思想の読み直しであるが、そういうふうにベルクソンを刷新することをうながしたのもメルロ=ポンティであった。ドゥルーズフランシス・ベーコン『感覚の論理学』や『シネマ』は、メルロ=ポンティセザンヌやクレー論を、時代に合わせて焼き直したようなものにも思われる。また「ポストモダン」概念を打ち出したリオタールは、メルロ=ポンティ直系の弟子である。フーコーもまた、初期にメルロ=ポンティの多大な影響を受け、その影響は後の思想にも生き続けている。また「スタイル」という概念を打ち出して、ロラン・バルトの批評にも多くの影響を与えていることは鷲田清一が『メルロ=ポンティ』(講談社)で示したとおりである。
 だからいわゆる「現代思想」を理解するのに、メルロ=ポンティの思想を知ることははなはだ有益である。「現代思想」がビックネームの党派的な擁護に堕してしまったり、死体解剖的に研究対象になってしまいはじめたりした時期に、ふたたびメルロ=ポンティが読み直され始める。認知心理学アフォーダンスオートポイエーシス論)が、メルロ=ポンティの身体化(embodiement)の思想を甦らせる。看護やケアの思想に、メルロ=ポンティの思想がインスピレーションを与える(臨床哲学)。男性的なサルトルと、フェミニズムの始祖ボーヴォワールのあいだにいたメルロ=ポンティの身体論に、ジェンダー論のバトラーが接近する(フェミニズム現象学)。レヴィナス、ミシェル・アンリといったフランス現象学の流れのなかで、メルロ=ポンティの「肉(chair/flesh)の思想が議論の中心になる。いまメルロ=ポンティをどう読み直せばよいのか。思いつき的にメルロ=ポンティの思想の豊かさを枚挙してみよう。

メルロ=ポンティ的な世界に入り込むための10の断片
1)身体論と「肉」
メルロ=ポンティの身体論はたんに、科学によって忘れられた身体を復興するものではなく、主体と客体の「あいだ」にひろがる豊かな領域を開拓しようとするものである。それは「言語」や「文化」にも息づいており、それが晩年に「肉」と呼ばれるものである。肉とは、カオスでもあり、さまざまな多様化(差異化)を作り出すものでもあるような不思議な原理である。
2)肉と鏡:メルロ=ポンティは晩年に「肉とは鏡の現象である」という。そしてそこでは「鏡像が実像より現実的である」。これはすなわち、自分が自分を見る、というナルシス的な状況であるのみならず、他者が「夢の中のように」増殖している世界である。「自己」はそこではむしろ「他者の他者」になる。こうしてメルロ=ポンティが描こうとしているのは、「現実と想像」「覚醒と夢」が「絡み合っている」ような世界の現実性である。
3)「間接的」思想。メルロ=ポンティは「ずれ」「ぶれ」「レリーフ」といった言葉に敏感である。物たちのあいだから「ななめに」わきでてくるような「意味」の「触知」にこそ、彼の感性は息づいている。観念論は「意味の直接的把握やその意識への現前」(デリダが現前の形而上学と呼んだもの)を説くが、メルロ=ポンティはあくまで「世界のさまざまな要素が、重なり合ったり、拮抗したりしながら、おのずと形態や意味を作り出していく瞬間」を「捉え直そう」とするのだ。科学のように、現象を要素の集合態ととらえるのでもなく、観念論のように「本質」のみを統握するのでもない第三の領域がメルロ=ポンティの研究対象なのだ。
4)他者との「共存と拮抗」。メルロ=ポンティは「他者との距離をもった接触」を説く思想家である。一方で幼児の世界のように、他者と自己とが「間身体的」に共鳴する世界がある。だが他方、私たちの身体はどうしようもなく文化的に「制度化」されていて、自己と他者は分かたれている。メルロ=ポンティはこのどちらもが真理となるような第三の立場を模索する。
5) 運動性と時間性。メルロ=ポンティは身体の内側から分泌されるような「身体の時間」「身体の記憶」を追求し続ける。身体とは内的な運動性(みずからを動かし、みずからを感じ取る)を持ち、それと相関的に「世界の運動」「世界の可能性」を現させるようなものである。これが「原-歴史」でもある。
6)言語の創発性。私たちはすでにある言語的世界、文化的世界に投げ込まれている。しかしこの世界でも「なにか新しいことを語り出すこと」ができる。言語的世界はつねに閉じられようとしながら、そのとじ目はつねにほつれていて、自己完結しないのだ。文学がそのモデルである。
7) 私たちが有限な身体を世界にさらしているかぎり、私たちの意識も「傷つきうる」ものである。だが身体=意識はつねにみずからの「運動性」によって、この傷が豊かなものとして働きうるような、新しい行為の「地平」を切り開くことができるものでもある。それは新しい「自己」の発明でもある。
8) 絵画モデル。彼の鏡像的な身体論と言語論・文化論を媒介するのが「絵画論」である。絵画は「沈黙の言語」として、身体的な世界と共鳴する。それは断片的であっても、つねに「世界全体」を表現する。絵画をモデルに言語や歴史を考えることが彼の課題のひとつであった。相対的、部分的なものの持つ絶対性。
9) 哲学と政治。彼の思想はつねに政治と結び付いている。初期は、サルトルと共闘しながら、マルクス主義の最良の部分を引き出そうとする「非共産主義的左翼」の立場を取る(『ヒューマニズムとテロル』)。だがソ連強制収容所朝鮮戦争への介入などを経て、サルトルと袂を分かち、いわゆる「中道的」な「非共産主義(acommunisme)」の立場を取る。一貫しているのは「弁証法」の運動を円環的に閉じてしまわず、たえざる「ずれ」の創造性や「開かれ」を温存することである。内側から外に開かれ、内側をつねに多元化するような「制度」の真理を実現しようとするのだ。
10)自然への感性。「動物や子どもを劣ったものと考えないこと」、これが彼の基本的立場である。動物的なものや幼児的なものとの接続の経験は、あらたな創造である。人間の思考を頂点とする階層的な思考を解体することが彼の課題である。この延長でかれは独自の「自然」論、生命論を模索している。
参考文献:
メルロ=ポンティ読本』法政大学出版局
メルロ=ポンティ哲学者事典』別巻、「メルロ=ポンティ」の項(入門)
『現代フランス哲学に学ぶ』戸島貴代志・本郷均、放送大学教育振興会(わかりやすい)
メルロ=ポンティ廣松渉・港道隆、岩波書店(港道論文がよい)
『沈黙の詩法:メルロ=ポンティと表現の哲学』加國尚志(専門書)
『自然の現象学メルロ=ポンティと自然の哲学』加國尚志(専門書)
『表現としての身体:メルロ=ポンティ哲学研究』末次弘(哲学プロパーの議論)
メルロ=ポンティ鷲田清一講談社
メルロ=ポンティの思想』木田元岩波書店(初期の代表的な研究書なのでまとめも多い)
メルロ=ポンティ加賀野井秀一白水社