廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学演習1 イントロ 4/17

先端文化学演習I
メルロ=ポンティの著作をできるだけフランス語原文に近接しながら読む。

・テクスト:Maurice Merleau-Ponty, « Le langage indirect et la voix du silence », Signes, Paris, Gallimard, 1960./
英訳:”Indirect Language and the Voices of Silence”, The Merleau-Ponty Reader, Northwestern University Press, Evanston, Illinois, 2007.
日本語訳は『シーニュ1』みすず書房、および『間接的言語と沈黙の声』(メルロ=ポンティコレクション)みすず書房に所収。翻訳は参照してよいがやや古い。
やりかた
・一回に一段落(一ページくらい)しかすすまない。とにかくフランス語原文、または英訳を解剖し、微妙な一文(複雑な文、簡潔すぎて意味がとりにくい部分)に立ち止まり、その意味を考え、可能ならば応用可能性を引き出していく。
・一段落を受講者で分担し、数行ずつ解読していく。
「間接的言語と沈黙の声」
・主著『知覚の現象学』(1945)でメルロ=ポンティは身体が世界へと向かう運動に焦点を当て、当時の心理学を活用しながら、あらたな現象の世界をとりだそうとした。
・そのなかでもすでに「表現としての身体」が論じられ、言語を身振りとして捉える視点が打ち出されていた。意味を生成させる初源的言語のことを彼はparole parlante(語る言葉)と呼び、すでに「制度化」されてしまった日常言語であるparole parléeと対立させていた。
他方、そこでもすでにソシュールが言及される。ソシュールの「ラング」(言語体系)の考えが、メルロ=ポンティの「語る主体」の哲学と呼応するというのだ。

その後1950年代に入るとメルロ=ポンティは「感覚的世界と表現の世界」の関係についての考察を始める。「初源的言語」と、すでに「制度化された言葉(parole parlée)」はどのような関係にあるのか、それが彼の問いである。
つまり私たちは「無からex nihilo」から出発して語るわけではなく、ことばがすでに「沈殿」(フッサール)している世界で語る。そのときことばを学ぶものは、ある意味受動的たらざるをえない。この文化的沈殿の受動性と、「初源の言語」の関係を探るのがこの論文のひとつの目的である。文化的な言葉の「下」(あいだ?)にどうやって初源の「沈黙」を見出せばよいのか。いやこの沈黙が初源の言語であるとしたら、ふつうのことばのほうがむしろ沈黙(記号によるメッセージの交換)にすぎないのではないか….

背景:
サルトル「文学とは何か」(いわゆるアンガジュマン文学、政治参加の文学)の批判。
マルローの「想像的美術館」の批判。ただし「首尾一貫した変形(déformation cohérente)」という考え方を借用。マルローは、近代絵画=個人の解放と考えた。メルロ=ポンティはそのような「宗教芸術」対「近代個人主義」という対立が皮相なものであることを指摘。個人主義の称揚は全体主義の裏側にすぎない。

メルロ=ポンティ思想の流れのなかでは、ソシュールを利用して、すでに沈殿した言語システムや文化システムに身をおいて、どのように創造的なことばを語りうるか、という問題がある。政治的にも、革命後の社会が、革命と同時に「制度化」してしまうという状況をどう受け止めるかという問題がある。

絵画(見えるもの、見させるもの)と言語(語るもの、語らせるもの)の関係?身体と概念の関係→「間接的言語」はそのどちらでもない。