廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究V 幻影肢2

コメントより(抜粋)
・それ自体世界内に属していない直接の経験が世界に内属し、世界を変革しうる仕方で存在しうるために、習慣的身体が存在している。しかしそれは現勢的身体でもある必要がある。二重の身体性。
・現前と不在の中間的存在を「見えるようにする」
・「自分の身体が自分のものと思えない」(離人症、解離)、自我同一性の拡散、「自分が何ものなのか、何をしたいのかわからない」(→ 「ここはどこか、いまナンドキなのか」、トラウマと拡散。→パトナム『解離』、柴山雅俊『解離の構造―私の変容と<むすび>の治療論』(岩崎学術出版社
・夢の中では「現勢的身体」は存在しないのに、私は夢の中にあるか。夢においては「習慣的身体」として「幻影肢」ならぬ「幻影身体」が現れる。→ 渡辺恒夫『夢の現象学・入門』(講談社メチエ)
・私たちは(幻影肢)の沈黙に語り掛けられている。損傷について私たちは前意識的な知を持たされている。欠損の裏面
・「裏面」とは「あること」の裏面
・この「世界」は「私の世界」なのか「みんなの世界」なのか──「間主観性」の問題。→ 私は世界とのかけがえのない関係において「他者たち」=私たちの分身とであう。
・「身体の声を聴く」強く頭を打って記憶があいまいになったとき、自分の記憶と身体的感覚が結び付かなくなる。
・身体の変化によってその人の世界はすでに変わったものになっている。「ない」ものとして「ある」ようにとらえ、世界とのすり合いを、変化をみとめずに、つける。
デカルトとの関係。幻影肢→メルロ=ポンティは『知覚の現象学』第三部で、新しいコギト(我思う)を提出する。それが「沈黙のコギト」である。非人称的な「ひと」が私において考える。
・現前と不在のあいだ。「イップス(=緊張やトラウマで、存在している自分の感覚がプレーヤーに感じられなくなること)」
・言葉で説明できるようなこたえを求めてはいけない。しかしいつかは言語化しなければならない→ 「いまだ沈黙している経験を、表現にもたらすこと」というフッサールの言葉をメルロ=ポンティはしばしば引用する。
・有と無の両義性は、宗教的な文脈での信仰能力につながる→メルロ=ポンティは「無神論実存主義」といわれ、神も「現象」のひとつだと考えるが、他方、「有神論」と「無神論」の区別は皮相だとも考えていた。たとえば「世界がある」ことへの信憑(=信仰)foi」は、たえず「非信憑=不信仰」に脅かされている、と考えるなど。
・眼鏡などの「道具」による身体の拡張。目視せずにあるものを身につけたときにその形状を予期できる。時間の要素はいらない?→ 記憶の問題だけではなく、運動の問題も考える?「未来への開かれ」?(149頁)

時間の問題:幻影肢と抑圧
・「非人称的な時間は流れ続けるが、人格的な時間のほうは膠着したまま」150
・これはたんなる「惰性」ではなく、危機に際して、「私の身体」=「行動」となる(サンテクジュペリの例)=しかしこれは瞬間的でしかない→ これに持続性を与えるのが「芸術」

・「私が悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れ切っているあいだにも、すでに私のまなざしは前方をまさぐり、ぬかりなく何か輝いたものをめざしており、こうして自分の自立した生存を再開している」151

時間の「凝集」(151)

「過去はあたかもわれわれの力が流出していく傷口のようなものとしてとどまる」同じように「わたしたちの身体の無名性は、自由でもあり、隷属でもあり、両者は不可分の関係を持つ」(153)
幻影肢:
「腕の幻影肢とは、抑圧された経験と同じく、まだ過去になりきってしまわない〔なることを決めかねている〕古い現在だ」。
 過去=現在によってすでに押しやられてしまった、かつての現在。いまやそれは「現在」としての性格を喪失し、<現在から見られた対象>になってしまっている。