廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

野生の存在に出会うために(未完)

野生の存在に出会うために(未完)
比較文化学類教員 廣瀬浩司

1. 透視画法的認識の解体とは
 「我々には、子どもの時間やその早さを、我々の時間や我々の空間などを未分化(indifférentiation)にしたものとして理解する権利があるのだろうか」 ──あるところで晩年のメルロ=ポンティは自問している。子どもの経験を否定的にではなく、肯定的に考えることこそが、現象学の務めだというのだ。それではたとえば児童画について、どうしたらその「積極的達成」 を語ることができるのだろうか。
 そのためにはまず、「我々」が自明なもの、あるいはもっとも「客観的な」ものと考える透視画法的な認識の自明さを「括弧に入れる」必要がある。そうでなければ、幼児のデッサンは、透視画法に至る過程としてのみ観察されてしまうからである。
 ここで重要なのは、このような自明さを括弧に入れるためには、透視画法的な認識を否定するだけではなく、その内的なメカニズムを解明し、その「客観性」の動機を明らかにする必要があるということだ。メルロ=ポンティによれば、透視画法の客観性は、「逆説」にも見える事態に基づいている。それは「一つの視点から」見られた世界を表現していると同時に、それが「万人にとって妥当する」(EDE, 121)ものとして描き出されているということである。
 これは以下のような手続きによってなされる。まず透視画法は、世界の現象を「系統的に」「変形」し、「主観性にある原理的な満足を与える」(EDE, 121)。ひとはそれを自分がある一点から見ている像であるかのように思い、満足するのである。だが第二に、それが「客観的なもの」として現れるためには、この「変形」の規則が、暗黙のうちに画面のすべての部分において、妥当することが前提されていなければならない。さらに言うならば、我々が生きている空間そのものが、そのような規則によって律しられていることが前提されていなければならない。空間がすでに透視画法的に「理念化」(フッサール)されているからこそ、一点からの眺望が、客観的に妥当するものとして現れてくるのである。このことをメルロ=ポンティは以下のようにまとめている。

それが私に与えてくれるのは、世界についての人間の見方ではなく、有限性にあずかることのない神が人間の見方についてもちうる認識なのである(EDE, 122)。

ここで神と呼ばれているのは、けっしてひとつの視点に拘束されず、あらゆる空間と時間に遍在することができるような無限に無限なる存在のことである。透視画法の「逆説」は、この神の認識を直接表現するのではなく、世界に身体をもって受肉している「人間についてもちうる認識」として、表現することにある。こうして透視画法の「客観性」の根拠がある。それは「無限に無限なる」存在と有限な人間の視点の交差する場に成立するのである。
 世界についての「情報」をもっとも科学的に表現するとされている透視画法が、このように無限に無限なる存在との関係を前提としているとするならば、いわゆる近代科学の前提する「客観的な時空間」そのものも、こうした存在を前提とすると考えることができるだろう。このような客観的・科学的な認識は普遍的なものではなく、ある種の(歴史的な)「決心」(EDE, 121)に基づいていること、このことを透視画法の見かけ上の客観性は示しているのである。
 だがこれはあくまでひとつの選択にすぎない。では他にどのような選択がありうるのだろうか。そのことを示しているのが児童画や先史時代の絵画であり、そして透視画法とは異なる表現を模索した、セザンヌ以降の絵画なのである。(ここまでで1400字程度)

2. 児童画のロゴス
 しかしながらメルロ=ポンティはここでは、児童画について、具体的な分析を詳細には展開おらず、リュケの『子どものデッサン』に批判的に言及しているだけである。そこで本論では、メルロ=ポンティと同じように、未熟な透視画法としてではなく、児童画そのものの「積極的な達成」を論じている、鬼丸吉弘の『児童画のロゴス』を参照してみよう。
(『児童画のロゴス』まとめ)
興味深いのは「殴り書き」から「表出期」への移行である。
・円の発見:無ではなく、ナニモノカがあるという発見。「対象」から主体への働きかけ
・直線の発見:方向感覚の発見、重力の発見。
子どもが白紙に「しるし」をつけようとする過程において、無ではない何ものかの出現に出会うこと(偶然性)、そこで自分の身体を貫く空間の方位性に気づくこと(運命)この何ものかをみずから描き出す可能性に気づくこと(自由)
頭足人間;何ものかが「誰か」になる、という経験。生命的なものの芽生え。その運動性(手足)。

3. 世界との遭遇の証言としての児童画
 以上を踏まえ、メルロ=ポンティのテクストに戻る。
・有限な身体をもった存在が、みずからの運動によって、外部に「しるし」を残すこと
・これは外界との出会いの「証言」であって、「情報収集」や「情報処理」ではない。感情の震えを痕跡として残すことである。
・これは言語以前の言語以前の言語であり、コミュニケーションのための言語よりも雄弁であるともいえる。なぜならそれは、物との根源的な出会いの遭遇であり、いまだ構造化されない世界全体との出会いの証言でもあるからだ(超客観性、超意味)。
・私たちがもしこのような「言語」をふたたび語ろうとするならば、透視画法と格闘したセザンヌ以降の絵画のような労苦が必要である。一見逆説的なことながら、「野生」の存在は、獲得されるべきもので、たんに文化以前に帰ることではない。

4. まとめ
・児童画の研究は、児童の発達段階の類型化のためではなく、それじたい「野生の表現」の発掘でなくてはならない。
・幼児が円を描くのも、成人が「リアル」に何かを描くのも、世界との接触の異なった「スタイル」の表現にすぎない。
・同様の発掘は、現代絵画の歴史そのものでもある→ 現代絵画や芸術の例を挙げる?



○ここに他の方向への展望をはさんでもよい。
1)フーコーメルロ=ポンティ
 ミシェル・フーコーメルロ=ポンティに深い影響を受け、近代的な「表象」と獲得し続けた、『言葉と物』における「表象の表象」(冒頭のベラスケス分析)論がそれである。また『監獄の誕生』におけるいわゆる「パノプティコン」の分析も、メルロ=ポンティの透視画法論と深く通底する。
 重要なのは、メルロ=ポンティフーコーも、表象(古典主義、近代の認識、科学、権力諸関係、新自由主義)をたんに否定するのではなく、その意味構造を解剖し、「べつのかたちの思考」を、現代芸術をヒントに模索したことである。
2)児童画の表出は、無意識の空間や文学、夢の時空間、神話的時空間と比較可能。ただしメルロ=ポンティは「無意識は意識の背後にあるのではなく、前にある」と言う。無意識は、意識をあやつるもう一つの思考ではなく、むしろ感覚的な時空間そのものの内にひそかに眠っていると彼は考えるのだ。
3) 時間の問題。「現在はまだ過去にふれ、過去を手中に保持し、過去と奇妙な具合に共存しているのであって、絵物語の省略だけが、その未来へ向かってその現在をまたぎ越してゆく歴史のこの運動を表現しうるのである。」(EDE, 124)→ 幻影肢との関係、神話的時間、夢の時間性)
4)「幼児の対人関係」との関係。幼児が表出する「像」(なにかあるもの)と、自己像とは深いところで連関していないか。「他者になにかを表現すること」と「自己を表現すること」との連関。