廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

セザンヌの懐疑

現象学と絵画

・目的:絵画を「哲学的」に分析するのではなく、むしろ画家の営みをモデルに思考すること。(プリント1参照)

 

モーリス・メルロ=ポンティセザンヌの疑惑」(『意味と無意味』所収、『メルロ=ポンティ・コレクション』ちくま学芸文庫所収)

 

「人間との柔軟な接触の欠乏、新たなる境遇を支配できないこと、習慣への逃亡」

 

印象派からセザンヌ

「〈自然〉をモデルとする印象主義の美学を離れ去ることなしに、物に立ち戻ろうとした」「感覚を離れ去ることなく、輪郭を限ることもなく、デッサンによって色彩を枠に入れることもなく、遠近法や画面を構成したりもせずに、現実を追求」

 

セザンヌの積極的な意義

・「感覚か知性か、見る画家か考える画家か、自然かコンポジションか、プリミヴィズムか伝統か、という二者択一を逃れ去ろうとする」

「かたちをなしつつある素材を、生まれいづる秩序を描こうとする」

 

遠近法のデフォルマシオン(秩序だったデフォルメ)

 

「他人の精神は、なんらかの顔や動作と結び付いた、具体化したかたちでのみ示される」

セザンヌの絵画は、人間的習慣を停止させ、非人間的な土台(図)をあらわれにする」

 

ルーブルで学んだ技術を用いつつも、風景の構成を生まれ出ようとしている有機体として、ふたたびとらえる」「ばらばらになろうとするものを再び結び合わせる」

 

そのとき「風景は私のなかで思考されるのであり、私は風景の意識なのだ」→

イメージの熟成、結晶化=セザンヌの表現の瞬間。

 

・「最初の人間が語ったように語り、かつて誰一人描いたことがないように描く」

「作品が成功すれば、それはおのれ自身の生の意味を他者に教える」

→ パラドックスセザンヌの作品は、いまだ未来のものである作品に支えられてはじめて均衡を見出している」「作られるべきこの作品が、このような生を要求したのだ」

 

展開:

ドゥルーズセザンヌ主義者フランシス・ベーコンを題材にメルロ=ポンティを「反復」。マルディネの人間学を、メルロ=ポンティドゥルーズから批判すること。ドゥルーズ現象学批判の甘さの乗り越え。臨床的にはドゥルーズよりメルロ=ポンティのほうが現在では有効ではないか