廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

村上靖彦『在宅無限大』

 
(...) おそらく、村上さんの思考の柱にはやはりレヴィナスサルトルラカン
あって(自閉症の「視線触発」という概念への私の違和感とも
かかわりますが)、それがメルロ=ポンティ
フーコー、ウリ、シモンドンあたりの規範創出論と大きくずれる。あるいはそれらを凡庸化している。
 
いずれにせよ、どこか、私の考える「実践」の場と、
村上さんが関心をもたれる場が、根本的にずれているのだなあ
というのが私の率直な感想です。そのあたり、理論化・言語化
するのは難しいなあとおもっていたのですが、今回の附論、とりわけ「自由について」(228-)を精読させていただいて、このずれが少しはっきりした気がします。たとえば榊原先生の論考とくらべても、村上さんは実践をみていない、いや抑圧していると。
 
まず「看護師の視点から看護師の経験を、そしてそこには患者の視点もある」(220)とおっしゃっていますが、このばあい、「視点」とはなんでしょう。医者の視点ではないことはわかりますが、「視点」という概念で、これらがきれいに連続するとは私はおもえません。
 また個別性ということですが、看護師さんの経験はたしかに多様で個別的なのだけれど、看護士さんの「語り」は、ある意味すこぶる画一的におもえました。このあたりにつきつめるべきアポリアの中心があるのではないでしょうか。これが方法の根幹にかかわる点です。おそらく方法が、語りを画一化しているのだとおもいます、
 
応答困難な状況の「特異性」にもおなじ感想が生まれましたが、迂回はやめて、「自由について」に向かいましょう。
 問題はやはり「規範」概念にあると思われます。村上さんの記述では、いろいいろな留保(配慮)は付けられているものの、マクロな「抑圧的な規範」があって、それに「隙間」をつくって新たな規範を創出するという図式があり、これは引用はありませんが、あきらかに私のフーコー論やメルロ=ポンティ制度論を使っていますが(本書では言及されていませんが)、せめて注なりで指示していただきたかったです。私なりに苦慮して案出した「アイディア」ですので。
 「隙間」メルロ=ポンティ=リシール(この二つにこの点で大きな差異があるとは思えません)のエカール(隔たり)ですよね。しかし私やリシールの論にたいして、村上さんの論にはあきらかな誤解があります。このばあい、村上さんが想定されている「マクロな規範」は、実際のところ何なのでしょう。たとえば、看護士さんが日々準拠しているマニュアルや病院規則はもとより、完全に身体化された動きこそに規範化は実践されているわけで、はたして隙間は、規範創出の場となりえるでしょうか。むしろそれこそが日々新たに規範化されているのが「現場」の問題なのではないでしょうか。ヤコブソンが言ったように、発達は多様だが、逸脱は規則的なのではないでしょうか。
 いいかえればこういうことです。村上さんが記述されている「隙間」と言われているものの上記の「画一性」というものは、やはり看護師が現在置かれている状況において、いわば権力諸関係の補完物になってしまっているのではないか、そして当の村上さんの御著書自身(看護師さん当人ではなく)が、それをさらに「規範化=エートス化」し、看護士さんを上からと下からの規範によって縛り付けてしまう危険はないでしょうか。具体的にいえば、次節で出される「コンタクト」や「生」といった範疇は、容易にこうした補完的規範へと化してしまわないでしょうか(看護士さんはこれを読んでも驚かず、まさにそれを目指して頑張っている、と「元気づけられて」ますます「倫理的に」自己規範化し、板挟みになってしまうのではないでしょうか。それでいいのでしょうか。)要するに本書は「生の権力」の強化ではないか、というのが言いたいわけですが、そこからの情動的な抜け道さえ、「小さな快楽」に回収されてしまっているようにもおもえてしまいます。これは情動的だけに強烈なミクロ規範にならないでしょうか。情動の現象学は危険です。  
 おそらく村上さん自身は現象学そのものを否定されたいのかともおもいますし、本書には現象学いや哲学的な思考のはたらきは感じられませんので、看護のよきガバナンス(これはそれ自体では悪ではありません)こそが村上さんの究極的な意図なのだと推察します。
 
 おそらく哲学的議論のためには、まさにメルロ=ポンティ=リシールとともに、「規範(norme)」という概念そのものを再検討する必要があるということですが、これは完全に我田引水ということになりますね。私はおそらく看護師の「視点」というものをその「語り」に見ることはないだろうとおもいます。マクロな規範も、細かな実践も、(たとえ現象学的にせよ)実体化=自然化する方向にはいかないとおもいます。またラカンやウリは医者の実践論であるわけで、規範論をやるとしたらやはり医者の実践の歴史を考慮する必要があるのではないでしょうか。フーコーなら、彼らをおそらく批判するため、規範の体系としての制度論を放棄することで生の権力ーーそしておそらく真の「隔たり」をーー見出しえたわけで、「晩期フーコー?」を倫理化する以前に、この分析の再考が必須になるでしょう。