廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『眼と精神』モーリス・メルロ=ポンティ

『眼と精神』(1961)モーリス・メルロ=ポンティ

みすず書房、武蔵野美術大学出版局)

担当 廣瀬浩司

 

この授業でかんがえてほしいこと

1)身体をもっている私たちは、どのような時空間を生きているだろうか。

2)ふだん意識しないそのような時空間を、どのように「表現」することができるだろうか。

 

テクスト:メルロ=ポンティ『眼と精神』(『眼と精神』みすず書房、『『眼と精神』』を読む))

モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)

フランスの現象学者。戦後フランスで、サルトルとともに「実存主義運動」を牽引。身体性が意識にどのように関わっているかを探求。現在では、(1)身体性を考慮した芸術論(2)人類学、言語学、心理学、精神病理学看護学臨床哲学などいわゆる科学と哲学の橋渡しをする存在として、ふたたび注目されている。『眼と精神』は彼の遺著で、彼の晩年の思想が凝縮されている。

 

『眼と精神』概要

 

・私たちはある種の幾何学的に計測可能な空間を生きていると信じている。メルロ=ポンティはこうした空間が、一五世紀イタリアルネサンスの「幾何学的遠近法」の時代に作られたことを指摘する。また哲学的には、デカルトが「主体」と「客観的対象」との関係として理論化した。

・だが一九世紀後半のセザンヌ以降の絵画は、こうした遠近法絵画の「客観性」を疑問視する。こうして現代アートにつながるような、新たな空間が開けるのである。

・絵画の空間、芸術家の表現の空間には身体性が大きくかかわっている。いまここにある身体、五感を総動員する身体、運動する身体、重力をかんじる身体など・・・

・このような身体を解放したときにどのような新しい空間が開けるだろう??

引用:

・「森の中でわたしは幾度となく、森をみているのはわたしではないという感覚を抱きました。木々こそがわたしを眺め、わたしに語り掛けてくるのだという感覚をいだいたことが幾日もありました。わたしはと言えば、そこにいて、耳を傾けていました。私が思うに、画家は宇宙に貫かれるべきであり、宇宙を貫こうとおもうべきではありません。私は内部に沈められ、埋められるのを待ち受けているのです。おそらく私は浮かび上がるために描いているのです」

 

―――

・「画家が世界を絵画に変えるのは、世界に自分の身体を貸し与えることによってである」

・見る者の身体はそれ自身見えるものなのだから、その身体によって、見る者は見えるもののなかに埋め込まれている。他方、『見えるものと見えないもの』世界のほうも、客観的世界ではない。両者は連動している。

・世界は身体と同じ生地でしたてられている。視覚は、物にとりまかれ、そのただなかでうまれる。目は世界に生まれ、世界からなにかを受けとめる。

→ オランダ絵画における丸い鏡こそ、画家のまなざしの象徴である。物たちの中に視覚が芽生えているのだ。

 

(注釈)鏡についての実験。鏡の前で何かを握っていると、鏡の中でそれを感じているように思えてくる。ふたつの場所で同時にそれを感じるのだ。あたかもイメージでしかない鏡の身体が感覚をもつかのように。

 

ラスコーの絵画の動物たちはどこにあるのか。たんなる物としての岩とはことなる、だけれども私たちの頭のなかにだけあるのでもない。私のまなざしは絵の中をさまよい、絵を対象として見るというよりは、絵にしたがって見るのだ。

 

『夜警』のなかで私たちのほうを指している手がほかならぬ<そこ>にあるのは、まさに隊長の身体のうえに落ちたその影が、その手を同時にヨコからも私たちにみせるときである。

 

 

彼方から画家に自分を見させるのは、山そのものであり、その山にこそ、画家は目差しによって問いかけるのである。山が山となる。光、影、反射、色などを通して、山は山となるのだ。

 

遠近法的空間

・理論上は、どこから見ても質的に変わらない「理念的」空間がまずある。

・遠近法は、その空間の一部を、幾何学的に切り取ったもの

 

現代絵画の問い:

画家がもとめるべきことは、現実のイリュージョン(現実でないのにあたかも現実であるかのようなもの)を与えることだろうか??

 

1)遠近法とは異なった「奥深さ」の模索

物たちが隠し合いながら、重なり合いながら、私たちに「見てくれ」と求めているような空間の厚み。

「私が見ている」ではなく、「物がそこにある」という感覚を与えてくれる空間。

色と色がぶつかりあって、物たちが揺れ動きはじめ、不安定さのうちでリズムをもちはじめるような絵画。

 

2)運動:ある座標系、運動体が動くのではなく、「移動なき運動」

ロダンの彫刻『歩く人』

ロダンが言うには、運動を与えるもの、それは腕、脚、胴、頭がそれぞれ別の瞬間にとらえられている姿勢で身体をかたちづくり、その諸部分を虚構によって強引につなぎ合わせる一つのいめーじである。両立不可能なもののせめぎあいが、移行と持続をあらわす」

ジェリコ-(フランスの画家、1791-1824)エプサムの絵画

「どうしてジェリコーの馬たちは、ギャロップ中のどんな馬も絶対的にとったことのない格好をしていながら、カンバスのうちを疾走しているのだろうか。」=馬の身体が地面をつかまえている、同時に時間の持続もつかまえている。

 

3)画家が描く、のではなく、画家が物たちのあいだから生まれてくる。

 

まとめ

・ルネンサンス、デカルト以後の近代の空間は、幾何学的な遠近法の空間、理念的な空間であった。そこでは座標系の中を運動体が移動する

 

セザンヌ以降の絵画は、遠近法から絵画を解放し、厚みをもった物たちの空間を切り開いた。そこでは「移動なき運動」によって、物たちは震えている。これを「奥深さ」の時空間と呼ぶことができるだろう。