フーコー『肉の告白』アウグスティヌスにおける性的存在としての自己
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主題:アウグスティヌスにおける性的存在としての自己
キーワード:アウグスティヌス、堕罪、操舵、意志、リビドー
異教徒アルテミドロス(前3世紀)において性的な夢とは、未来の社会的な関係の予兆である。これは過去の個人的関係の圧縮・置換を夢とするフロイトとは異なる。これとの関係において、キリスト教における性的存在としての自己を解明するため、聖アウグスティヌス(354-430)が分析される。
キリスト教において「私はどのような存在か」というかぎりない「問い」が生じ、この問いにおいて、セクシュアリティがフィルターになっている。
それは「告解」「良心の検討」「洗礼」「婚姻」などの「実践」と結びついている。
フーコーの参照文献:『ユリアヌス駁論』『神の国』14巻(服部英次郎訳『神の国(三)』岩波文庫)
またフーコー『肉の告白』も参照
・アウグスティヌスは性行為の恐怖をえがいているが、これは彼に特徴的なことではない。彼にとって重要なのは、「エデンの園において、つまり堕罪以前に、性交渉が存在した可能性を(はじめて)みとめている」こと(128)
・ただし堕罪以前の人間の性行為は、意志に基づかない行為ではない。自己が「統御」されている。
→「自己の統御(gouvernement)」というテーマは重要。政治的統治だけではなく、自己をただしく「操舵」するというのが本来の意味。
・堕罪以後:神の意志から独立した意志を欲望して、自己の操舵をうしなう。
「彼の意志には、以後、意志にもとづかない動きが混ぜ合わされる」
→その「とりつかえしのつかない結果」:みずからの身体がみずからに反抗する。
フーコーのコメント:
この文献は「キリスト教によってセクシュアリティ(性現象)と主体性とのあいだに」新たな関係が打ち立てられたことを示す(130)
アルテミドロスのように、社会的な他者関係が問題なのではなく、「自己の自己に対する関係」「意志と意志によらない表現との間の関係」が重要。
「リビドー」(欲情):
重要:それは「意志にとって外的な障害」ではなく、「意志の一部、内的な構成要素」であり、「意志の結果」である。→ フロイトのように、意識と無意識の対立ではない。
・プラトンは感覚的世界から、上方の叡智的世界、イデア的世界に眼をむけ、それを「想起」することを説いた。
それにたいし、「私たち」は「自分の視線をたえず下方あるいは内部へと向け」、魂を解読する。
重要:だがリビドーと意志は切り離せないので、非常に困難。自己についての不断の解釈。
廣瀬コメント:
・キリスト教における自己の自己との関係は、「こころ」と「身体」の葛藤というようなものではない。なぜなら「リビドー」や性的なものは、自己の「意志」の不可分な要素をなしているからである。これは心身の分離を前提とした議論ではないのである。
またいわゆる「自己疎外」というようなものとも違う。なにか外的なものが自己を疎外しているわけではなく、「イデア界」「神の意志」といった超越的なものによって疎外されているのではなく、みずからの意志が二重のものになってしまうからである。→ もちろんキリスト教においては天上の救いというものがあって、この「超越」が回復されてしまうのであるが。
リビドーという言葉からして、フーコーは最終的にはフロイトの精神分析におけるような「自己分裂」がどう生じたかという「系譜」をめざしているとおもわれるが、その道のりはまだ長い。フロイトがほぼ歴史的文献となってしまった現代において、どのような自己との関係がおりなされているのだろうか・・・
参照:フーコー『肉の告白』四三二以下「性のリビドー化」
・『生者たちの統治』(ミシェル・フーコー講義集成)