デリダ「歓待について」2
『歓待について』(2)0422(重要点に線を引きました)
補足:
デリダの講演は「行ったり来たり」を繰り返すので、筋をつかみにくいですが、まずは180ページ以降の「訳者あとがき」を併読しておいてくれるとたすかります。
ポイント:
(1)p. 183− 移民難民問題。デリダに先立つ考えとして、いくつか挙げられる。
・イデオロギー的な外人排斥
・それに対する左翼的運動
デリダは最終的にはこれらの間に位置しているが、この「間」も二つに分かれる。
・デリダのように「無条件の歓待」をなんらかのかたちで記憶に留めているタイプ。
・デリダの「無条件な歓待」などは「終わった」とみなし、より「現実主義」的な立場を目指すもの。いまはこれが優勢(p. 196参照)。「責任の断片化による権力の全体化」(23)
とくにフランスは「寛容(tolérance)」の国ということが人権宣言に書き込まれている。しかしこれはナショナリズムと矛盾しない。
当時の移民政策(移民の波を統御する)。出生地主義の見直し。→「サン・パピエ」の運動(滞在許可証をもたない人)
(2)デリダ自身の「異邦人性」
・フランス人だが、19歳にフランスに行ったときに強い疎外感。(『他者の単一言語使用』岩波文庫)。
フランスのドイツ占領下に、市民権を奪われる。「おそらく家の喪失という経験を耐え忍ぶものだけが、歓待を供することができるのだろう」(21)
「母語」=自分に固有なもの、という考え方に異議。
「共同体」という言葉は避ける。
そもそもhospitalité/hospitalityとは(176-177)
・hôte/host(主人でもあり客人でもあることに注意)。
語源はhostis (敵)、hospes(主人)
*hosti-pet :-pet-は個人のアイデンティティ(ipse)、その能力や権力を示す。
Hostis : 「契約」「盟約」として、相互的にお互いを受け入れること。
・したがって「伝統的な」ホスピタリティとは、ある種のアイデンティティをもった集団ないし個人どうしが、おたがいに契約を交わして成立するもの。
・語源的に「敵」という言葉がはいっている。
・契約としての相互的歓待→まずは他者(異邦人)が不意に現れ、自己に侵入すること。
・まずは「自己性」「権力」があっての歓待→他者が侵入し、それが「敵」として振る舞う可能性を考慮しなければ歓待はない。
- 102-106 :
102 :
デリダは「境界=限界」(リミット)の哲学者と言われる。彼の思想は、既成の境界や限界を打ち壊すのではなく、そこに「斜めの線」を入れ、境界を辛抱強く解きほぐしていく作業である。そのためには、ときに極端な限界突破も必要である(それは「誇張的方法」(デカルトの「欺く神」)と言われる)。デリダは、まさに国家と国家の境界にいる「誰か」に注目するのだ。
・絶対的・無条件で誇張的な歓待の唯一の掟 (到来するものarrivant の不意のおとずれについて開かれている。自分の固有性も放棄してしまう)
・条件的で、権利や法律にかかわるような、もろもろの法(ギリシア=ラテン、ユダヤ=キリスト教、都市法、国際法、カント、ヘーゲル)
この二つの関係をどのように考えるかにすべてはかかっている。
- 両者は根本的に異質(二律背反、カントは理性が、伝統的な形而上学の問題に直面して、自己矛盾に陥るようにみえることを示す。世界は有限か無限か、自由と必然など)
- 前者はまさに「掟」であって、後者を超越する。ある意味「法の外」(anomos)にある。〔都市から追放されたオイディプスはanomos〕。
- ところが前者は、掟であるためには、もろもろの法を「必要とする」(現実化しないと抽象的なものにとどまり、掟でなくなってしまう)
- しかしそのことによって、前者はさまざまな経験的な条件にさらされ、「堕落する」可能性がある。
- 後者も法として機能するためには、前者に導かれ、改良され、歴史の中で進歩しなければならない。そうでないとたんなる改良主義になってしまう。
デリダの思想:両者は根本的に異質であるが、両者がつかのま「同時成立」する瞬間はないか、その「瞬間」こそが、真の歓待の瞬間ではないか。「歓待は不可能である。だからこそ、それを目ざさなければならない」そのときに「ウィ(イエス)」と言おうではないか。
デリダの思想の特徴:
純粋とされるようなもの(本質、真理の現前、純粋な生命など)が、かならず不純なものに感染していることを示す。さらには、不純なものが感染しているかぎりにおいて、純粋たり得る。
→ 純粋と不純は「非決定的」
→ この非決定性のさなかで決定すること。
――
次回は「絶対的で無条件の歓待」の「堕落可能性」の例として、インターネットと歓待の問題をかんがえてみよう(p. 84-90)
リゾーム入門1
「リゾーム」演習 0421
- 根としての本 17-
- ヒゲ根システム 17-18
- 多をつくり出すことからリゾームへ18-19
- 多様体の原理 20-21
- 非意味的切断 21-22
- 脱領土化と再領土化のからみあい 22-23
- 地図作成法と複写術(転写:デカルコマニー)25-28
- 脳とリゾーム。短期記憶 28-
- 東洋(中国)、アメリカ、官僚制 -33
- リゾームの要約とプラトー(高原)33-35
- ノマドロジー 35-37
- まとめ 38
- いくつかの概念について
分節線 ⇔ 逃走線
領土化(territorisation)⇔ 脱領土化(déterritorisation)
地層化 ⇔ 脱地層化
複写(décalque)⇔地図製作(cartographie)
・分節:構造言語学が扱ったような分節(articulation)のシステム。とりわけ「シニフィアン」がそれを作動させると考えた。逃走(fuite)は、もじどおり逃避するというよりは、『過ぎ去り』「漏出」のイメージのほうがよい。また絵画でいう「消失線」も意識されているかもしれない。
・領土:植物や動物のテリトリーという側面もある
・地層:中心をもった階層構造が想定されている
・複写とはトレース紙でトレースするような転写。地図製作とは、リゾーム的な「逃走線」の
アレンジメント(agencement):異質な要素を異質なままに組み合わせ、共鳴させること。技術哲学者シモンドンは、こうしたことが技術的発明だと考えた。このことからD/Gは「機械状アレンジメント」とも言う。
多様体(multiplicité):本来は数学者リーマンの用語。N次元多様体の理論にもとづく(コンテンツ参照)。ドゥルーズは『ベルクソニズム』で、たんに数的多様性に対立させ、「質的多様体」こそがベルクソンの「持続」だと考えた。連続的であるが、切断や折れ曲がりによって、新たなものを「創造」するような時空間のこと。
器官なき身体:演出家、詩人であるアントナン・アルトーから借用した用語。器官がない身体、というよりは、「有機的な組織がすっかり解体してしまった身体(物体)」のこと。機械状アレンジメントは「地層化」することもあれば、解体して器官なき身体化することもある(後者が創造的)。
強度(intensité):本来は物理学用語で、電流の強さ、光度、色彩の強さなど、質的なものを測定する量のこと。ドゥルーズはこの概念を、上述の「持続」における差異化として使用している。「エクリチュールを量化する」とは、書くことによって、時空間に強度をみなぎらせるイメージで理解できる。
存立平面(plan de consistance):consistance とは、数学で無矛盾性、一貫性のこと。ドゥルーズは『シネマ』で、過去の記憶がよみがえる過程において、さまざまな「平面」を通過して想起されることを分析。たとえば夢のイメージは、さまざまな過去の平面が同時に現れてくるイメージである。
国家機械、戦争機械、性愛機械、文学機械、革命機械。これらを包含する機械を抽象機械とよぶ。
その他の予備知識(ストレスなき読解のために)
・チョムスキーの批判。チョムスキーは言語学者。生成文法を唱えたことでも知られる。彼の「二分法」については、コンテンツの資料参照。みずからの立場をデカルト的(生得説)とも言った。
・ハンス少年。フロイトが「ある五歳児の恐怖症の分析」で分析した、恐怖神経症(馬にたいする恐怖)の症例に出てくる少年。フロイトはこの馬を父親の象徴として解釈し、オイディプス・コンプレックス(母親との融合、それを禁じるものとしての父親の象徴、父への同一化)の理論をつくりあげ、また「幼児性欲」の概念を打ち立てたと信じた。メラニー・クラインはそれを「幼児の精神分析」として確立(よき母・悪しき母の区別)。
ドゥルーズ/ガタリは、こうした精神分析的解釈が、いかに幼児が、人間が生きている「リゾーム」を無視したかを『アンチ・オイディプス』で示す。
発表のモデル:
主要テーマ:二人で書くこと、あるいは「本」とは
- 二人で書くことの意味。
(問い)著者の特権を消し、書物の執筆を複数化するにはどうすればよいの
か。
人がもはや私と言わない地点に達するのではなく、私と言うか言わないかがもはやまったく重要でない地点に到達することだ(MP, 15)。
・(コメント)自己がふたつある「われわれ」ではなく、自己と他者の共同体としての「われわれ」でもなく、それぞれの「私」が多数化するネットワークを形成すること。ネットワークの結び目としての「私」は残ってよい。けれどもそれは「アイデンティティ」をもった確固として主体ではなく、リゾームの流れに貫かれて、多数化する「特異点」としての主体なのだ。
・主題よりも「素材」が重要であること。
- 本論の概念の提示
・概念の整理(上記参照)
・機械状アレンジメントの二重の運動(上記参照)
まとめ:
この箇所は、『千のプラトー』という書物をはじめるにあたって、この本そのものが「リゾーム」「機械状アレンジメント」であることを示している。「著者」としての「わたし」「われわれ」の分析が興味深い。また本書の主要概念もちりばめられている。
コメント:
リゾームは、機械状アレンジメントから成る、接続と切断のシステムである。これは、「書物」文化の死、「作者の死」(ロラン・バルト)とつながり、まさにインターネットのシステムと符合しているようにみえる。しかしいまのインターネットに、DGが語っているような強度や多の創造があるだろうか。むしろ一冊の物理的な本を手に取り、ぼろぼろになるまで繰り返し読み返し、折り目を付けることによって、そうしたすべてが重層化するような場として、「私」があるようなほうが、彼らの意図に近いのではないだろうか。
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担当 |
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4月28日 |
p. 17-18 |
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19-20 |
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5月12日 |
21-22 |
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23-24 |
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5月19日 |
25-26 |
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27-28 |
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5月26日 |
まとめ |
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6月2日 |
29-30 |
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31-32 |
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6月9日 |
33-34 |
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35-36 |
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6月16日 |
37-38 |
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39-40 |
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6月23日 |
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感性文化学:ドゥルーズ『シネマ2』
- 1962年 『ニーチェと哲学』
• 1968年 『差異と反復』
• 1968年 『スピノザと表現の問題』
• 1969年 『意味の論理学』
• 1972年 『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)
• 1975年 『カフカ──マイナー文学のために』(ガタリとの共著)
• 1980年 『千のプラトー』(ガタリとの共著)
• 1983年 『シネマ1 運動イメージ』
• 1985年 『シネマ2 時間イメージ』
• 1986年 『フーコー』
• 1991年 『哲学とは何か』(ガタリとの共著)
目的
『シネマ2』の哲学的論考を読む。
さしあたり、第二章を通読し、以下の各章は哲学的な部分のみ、読んでいく。
逐語訳はせず、要所(重要な箇所、難解な箇所)のみ、引用して自分なりの翻訳を出す。
(構成の例)
イントロ:担当箇所全体のテーマのまとめ。前とのつながりなどを数行で概説。
以下は、内容毎に分節し、要約を提示しつつ、その中に「引用」をはさんでいく。論文と同じ形式とおもえばよい。
結論:まとめと問題提起
授業ポイントメモ
・基本的にはベルクソン『物質と記憶』のイマージュ論を枠組としているが、そうでない部分のほうが興味深いものをもっている。とくにイマージュの「読解」という視点から、「記号」の問題が重ね書きされているところが重要だと思われる。基本的にはパースの記号論が援用されているが(米盛裕二『パースの記号論』(剄草書房))、時間イマージュの言語性(スピーチアクトという言葉は出てくるがオースティンではないそうである)が興味深い(『『千のプラトー』集団的言語行為』)。
・ベルクソンについては「純粋記憶」「記憶イマージュ」などの概念の概要を知っておくことがのぞましいが、しばらくは必要ない。『ベルクソニズム』第三章を読むこと。
・ドゥルーズ固有のvirtuel/actuel の区別については『差異と反復』または『ベルクソニズム』参照。「結晶イマージュ」の概念の理解に必要。
その他:
『ベルクソニズム』は「総体(ensemble)」と区別された「開かれた全体性」とモンタージュ(動的切片)の関係の吟味からはじまる。これは『ベルクソニズム』の到達点で、「持続は一か多か?」という問いにたいして、「開かれた全体性としての多様体」という側面から始まるもの。
『ベルクソニズム』
・心理学ではなく、存在論としてベルクソンを読む(経験の転回点の彼方)
・過去はそれ自体を記憶する非真理的な潜在態
・過去一般への「飛躍」という考え(キルケゴール)。
・そこから過去のある地帯に身を置き、潜在態をactualiserしていく。「感情イマージュ」「夢のイマージュ」
・過去と現在との「共存」(メルロ=ポンティ)
ここまではベルクソニズムの到達点から『物質と記憶』に逆行して、純粋記憶のactualiserのプロセスが形づくる「諸平面」を分類しているだけのように読める。
『時間イマージュ』
・感覚―運動図式の解体。ネオレアリズモ、ヌーヴェルヴァーグ、ニュージャーマンシネマ
・映画記号論批判(第二章)
・再認の問題と夢のイマージュ(第三章、物質と記憶2章)
・結晶イマージュ(actuel/virtuel)
・諸平面の共存
・偽なるものの力能(puissance)=ウェルズ=ニーチェ
・第7章以下の主題
身体と脳(時間イマージュの二つの側面)、第三世界の映画、テレビ論、民衆論、ベルクソンのfabulation(『道徳と宗教の二源泉』)概念の利用、ファシズム論(運動イマージュの到達点としてのリーフェンシュタール)などなど。
フーコー『肉の告白』アウグスティヌスにおける性的存在としての自己
- 127後ろから3行目―p. 131第一段落
主題:アウグスティヌスにおける性的存在としての自己
キーワード:アウグスティヌス、堕罪、操舵、意志、リビドー
異教徒アルテミドロス(前3世紀)において性的な夢とは、未来の社会的な関係の予兆である。これは過去の個人的関係の圧縮・置換を夢とするフロイトとは異なる。これとの関係において、キリスト教における性的存在としての自己を解明するため、聖アウグスティヌス(354-430)が分析される。
キリスト教において「私はどのような存在か」というかぎりない「問い」が生じ、この問いにおいて、セクシュアリティがフィルターになっている。
それは「告解」「良心の検討」「洗礼」「婚姻」などの「実践」と結びついている。
フーコーの参照文献:『ユリアヌス駁論』『神の国』14巻(服部英次郎訳『神の国(三)』岩波文庫)
またフーコー『肉の告白』も参照
・アウグスティヌスは性行為の恐怖をえがいているが、これは彼に特徴的なことではない。彼にとって重要なのは、「エデンの園において、つまり堕罪以前に、性交渉が存在した可能性を(はじめて)みとめている」こと(128)
・ただし堕罪以前の人間の性行為は、意志に基づかない行為ではない。自己が「統御」されている。
→「自己の統御(gouvernement)」というテーマは重要。政治的統治だけではなく、自己をただしく「操舵」するというのが本来の意味。
・堕罪以後:神の意志から独立した意志を欲望して、自己の操舵をうしなう。
「彼の意志には、以後、意志にもとづかない動きが混ぜ合わされる」
→その「とりつかえしのつかない結果」:みずからの身体がみずからに反抗する。
フーコーのコメント:
この文献は「キリスト教によってセクシュアリティ(性現象)と主体性とのあいだに」新たな関係が打ち立てられたことを示す(130)
アルテミドロスのように、社会的な他者関係が問題なのではなく、「自己の自己に対する関係」「意志と意志によらない表現との間の関係」が重要。
「リビドー」(欲情):
重要:それは「意志にとって外的な障害」ではなく、「意志の一部、内的な構成要素」であり、「意志の結果」である。→ フロイトのように、意識と無意識の対立ではない。
・プラトンは感覚的世界から、上方の叡智的世界、イデア的世界に眼をむけ、それを「想起」することを説いた。
それにたいし、「私たち」は「自分の視線をたえず下方あるいは内部へと向け」、魂を解読する。
重要:だがリビドーと意志は切り離せないので、非常に困難。自己についての不断の解釈。
廣瀬コメント:
・キリスト教における自己の自己との関係は、「こころ」と「身体」の葛藤というようなものではない。なぜなら「リビドー」や性的なものは、自己の「意志」の不可分な要素をなしているからである。これは心身の分離を前提とした議論ではないのである。
またいわゆる「自己疎外」というようなものとも違う。なにか外的なものが自己を疎外しているわけではなく、「イデア界」「神の意志」といった超越的なものによって疎外されているのではなく、みずからの意志が二重のものになってしまうからである。→ もちろんキリスト教においては天上の救いというものがあって、この「超越」が回復されてしまうのであるが。
リビドーという言葉からして、フーコーは最終的にはフロイトの精神分析におけるような「自己分裂」がどう生じたかという「系譜」をめざしているとおもわれるが、その道のりはまだ長い。フロイトがほぼ歴史的文献となってしまった現代において、どのような自己との関係がおりなされているのだろうか・・・
参照:フーコー『肉の告白』四三二以下「性のリビドー化」
・『生者たちの統治』(ミシェル・フーコー講義集成)
メルロ=ポンティの言語論
メルロ=ポンティの言語論(『メルロ=ポンティ・コレクション』)
前回のふりかえり
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(質問より)
・「両義性の哲学」:「哲学の中心にはパラドックスがある」例)心身の分離と結合(デカルト)
・まわりをとりまく言葉にたいして構えておくことで、不在のもの(見えないもの)を把握できる
・情報を「なぞる」こと。無数の要素から新たに何かを生み出す有機的システム
・コミュニケーションの「幻想」(16)
・他者が発した言葉から他者の考えを知り、自分の思考を深める
・身振りとの関係については、p. 31以下で再説
・自明性の「括弧入れ」としての現象学。現象に驚くような場の開け。
難解なテクストの例。
・読書経験の流れのなかで、はじめは、「あらかじめ知っていたこと」しか読みとらない。だがあるとき、「新しい思考」に出会い、それがテクストを再組織化する。この「新しい思考」こそが書物の源泉である。この源泉をメルロ=ポンティはのちに「沈黙」(27)と呼ぶ。この沈黙には直接たどりつくことはできず、私たちはいわばテクストそのものになって、格闘しなければならない。そのとき「ふと」新しい思考がめばえるのである。新しい思考の芽生えのためには「間接性」と「受動性」が必須である。
絵画や音楽と言語の違い。言語では、私たちは「共通の意味」をあらかじめ知っていると錯覚している。だが音楽や絵画では、作曲家の音色や絵画の色調や空間は画家独自のもので、私たちはそれに入りこまなければならない。メルロ=ポンティは言語にも同様の作業があると考える。それが「語の意味の作り替え」である。
独自性:イメージは知覚が弱まったものではない。想像力のはたらきは、「独自な志向性(対象そのものの意味との関係)である。いまここにいないピエールをわたしは直接目ざす。そのようにして私は自分自身から出て、自己を超越する。
ただし知覚と根本的に異なるのは、そのイメージを「さらに深く観察すること」はできないことである。
想像的意識は、対象を「無」として措定する。イメージは対象をここにいないもの、ふれえないものとして与える。そこには「無」が含まれている。だとすれば「想像的な意識」は「無化」するものである。
→ メルロ=ポンティはこのサルトルの説から出発するが、サルトルのようにきっぱりと、知覚と想像、存在と無をわけることはしない。メルロ=ポンティの「知覚」は両者を含むようなもの(知覚的な世界にも、その「地平」(20)において、見えないものがうごめいているという考え方)。見えるものの世界は、なかば受動的にあたえられる「見えないもの」によってひそかに織りなされている。
→
・「わたしの想像力とは、自分の周囲にわたしの世界が存在し続けることにほかならない」「ピエールの振る舞い」が私の世界で作動する。そのとき私の世界は、他者や過去(過去のピエールの振る舞い)にたいして開かれてある。それは「姿勢をとる」(22)といった半ば能動的、なかば受動的な身体のありかたである。
――
「思考は表現である」(22)
翻訳修正:<顔>→表情、意味作用(signification)→意味、意義
言語は思考の記号ではなく、「表現」である。
・テクストの意味を理解せずに「調子をつけて」読める患者。これは「実存的身振り」「スタイル」「情緒的な価値」などが、ことばの意味や概念に先立つものとしてあることを示している。このような実存的な身振りが、ことばに不可分のものとして「住みついて」いるのである。
「読書」とは何か(24)。書物は、作者と読者のあいだで、生命をもつような有機体として、感覚器官として、存在するようになり、わたしたちに新しい経験の領域をひらいてくれる。
ソナタの例。俳優の例。「表現という営みが、意味を実現し、実行しているのであり、たんに翻訳しているのではない。おなじように、表現以前になにか思考そのものがあるとかんがえてはいけない。すでに利用できる意味が、未知な法則にしたがって結びつき、あらたな存在が存在し始めること。
他者の意図を受け取るということはどういうことだろうか(26)思考の操作ではなく、私自身の実存がこれに同調して変化すること、私の実存が変化することである。
「偶然的なもの」との出会い(27)
「セザンヌの懐疑」第2回
メルロ=ポンティ「セザンヌの疑い(懐疑)(Le Doute de Cézanne)」第2回
問い
1)芸術家の作品はその生涯や心身の状態(「障害」も含む)からどこまで「説明」できるだろうか。
2)「完成した作品」と「未完の作品」の違いはあるのか?:つねに「試作(essais)」としての作品(DC, 240)
メルロ=ポンティの目的1
・セザンヌの絵画の「積極的意味」はなにか(DC, 244)。
ゾラ(友人の文学者)は彼の人生と性格によって作品が説明できると考える(心理学的解釈、いまで言えば精神分析的解釈や病跡学)
・「自然」や「宗教」への耽溺を一種の逃避や人間疎外と考える説。
セザンヌが自分の神経的な欠陥を逆用して、すべての人に価値の高い芸術
形式をつくり出したということは、十分にありうることである。自分だけに
忠実なセザンヌは、それまでだれも見たことがないようなまなざしで自然
を眺めることができたのである。彼の作品の意味を、彼の生涯によって決定
することはできない(DC, 244)
このようにメルロ=ポンティはひとたび、生や性格によって作品を「決定」しようとする立場をしりぞける。しかしこれだけがメルロ=ポンティの結論ではない。・・・・・・・・・
1870年以前の印象派の影響以前の絵画:情念をそのまま表現したような絵画
印象派:
・感覚の働きかけをキャンバスに
・プリズムの7色:物の「固有色」を描かない
・色彩のコントラスト、補色関係を利用。etc.
セザンヌ(DS, 246)
・印象派はオブジェの固有の重みを消す
・暖色や黒を使用して、「雰囲気の背後にオブジェを再発見」しようとする。
・色調の分割の放棄、段階的な色彩のニュアンス→「オブジェはまるで、内側からかすかに照らし出されているかのようである。光はオブジェから発しており、そのためにオブジェに堅固さと物質性の印象が生まれている(DS, 246-247)
「セザンヌの自殺」(DC, 247)
・自然をモデルとする印象派から離れずに、オブジェそのものに立ち戻る。
・パラドックス:感覚を捨てずに、自然の導きの糸をじかにえられた印象以外にもとめず、輪郭を限らず、。。。現実を模倣する」(DC, 247)→「現実を目指しながら、現実に到達する方法を採用することをみずからに禁ずる」
→「感覚のカオス」(ベルナール)
→ この批判は妥当か?(DC, 248以下)
参考文献:
ゾラ『作品』(岩波文庫)
アレックス・ダンチェフ『セザンヌ』(みすず)
メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず)
『監獄の誕生』1
『監獄の誕生』演習の手引き
フーコーの権力論、とりわけパノプティコン(一望監視装置)を翻訳でよみ、それでフーコーが何を考えていたか、新しい可能性を引き出していくことを目ざす。
通常のイメージ:
・いたるところに権力がある。ひとはみえない権力にたえずおびえて生きている→ 権力に逆らうことを無力化してしまう
・監視社会を予言している。→ 情報社会、コロナなどによって監視社会・管理社会の支配がますます強まっている。
・自動的な権力のテクノロジーのおそろしさ。監視カメラ等につながる。
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解釈:
「左翼」的:監視のイデオロギーは今日ますます強まっている。それは資本主義の高度化による。フーコーはこうしたイデオロギーを打ち壊すことを目指している。
「右翼」的:フーコーは権力や国家は「悪」ではない、肯定的なものだと言っている。彼は近代の「精神」がどのように生まれてきたかを肯定的に語ろうとしているのだ。
フーコー自身の発言
・フーコーはイデオロギーという用語を嫌う。イデオロギーが壊されれば真の理想的社会が生まれるというのは幻想である。
・18世紀にパノプティコンは、すばらしいアイディアとして受け入れられた。厳格で残酷な見せしめ型をやめ、刑罰を緩和し、囚人の身体のみに罰を与えるのではなく、「こころを矯正する」ことを目ざした。これは18世紀啓蒙主義であり、「人間」中心の刑罰の模索である。
→ (廣瀬)とはいえ、フーコーはこれをたんに肯定するのでもない。「人間的」とか「人間的自由」といった啓蒙主義的な考え方の「起源」をさぐろうとするもの。これをフーコーは「近代精神の系譜学」とよぶ。フーコーに拠ればこの起源はじつにとるにたらないものでもある(起源や近代化の神話化を避ける)。
・それにしても、この「近代の精神」は現代の「こころ」や「自己」の時代について深く考えさせるものではある。このことに気づいたゆえだろうか、フーコーはある時期に権力論をやめ、「生の技法」「自己への配慮」といった主題を模索していたが、残念なことに道半ばで亡くなってしまった。「セクシュアリティ」の問題も、この「自己との関係」という主題に大きくかかわる(秋学期のテーマ)。
『監獄の誕生』の流れ(目次参照)
演習のやりかた:
『監獄の誕生』
テーマ:17世紀末のペスト対策のありかた
- 226上段―下段一段落目:「碁盤目状のシステム」
・空間の碁盤割り
・地帯の封鎖、「うろつく」動物の屠殺、代官を地区ごとにおく、世話人を街路におく→ 注意:世話人も監視されている
・外出の禁止、鍵の管理(いまでいえばセキュリティ??)
・食糧調達のシステム化。
・出入りの管理。接触の管理(いまでいえばコミュニケーションの管理?)
しかし「自由」なひともいる。
・「「死体泥棒」。「下層民」のみ自由な行動が許されている。「病者を運び、死者を埋葬し、相似し、多くの卑劣な仕事をする下層民」(226下)。
ここまでのコメント:
碁盤目状の管理、人員の配置によって、住民の「動き」を徹底管理。→ しかしこれは感染しないようにという「リスク管理」でもあるので、「横暴な権力」とも言いにくい。
このシステムはじつは「下層民」の存在がなければ成り立たない。動物でも「うろつ」けば殺されるが下層民は自由に動いて衛生管理。下層民が権力を動かしているともいえる。真に「しいたげられている」のは住民より下層民。
・「無秩序に気をくばる」ための人員配置
・監視所の見張り番
・世話人の行動も監視される。→監視は一方的ではなく、監視するものも監視されるというシステム。→ 究極の監視主体はいるのか??
・健康状態を報告させること。
・死者や病人をあぶりだすための調査。→病人が隠されていることは感染源が隠されていること。リスク管理の徹底
・「生者と死者を調べ上げる大がかりな査閲」(227上)
コメント:
この段落では「世話人」という人がどういう役割を演じているかが記述されている。究極的に管理されるのは「生と死」「病いと健康」である。→ 後のフーコーはこのことを後に「生の権力」と呼ぶ。監獄は「個人」の管理だが、「生の権力」は「住民群(自治体)」の健康と病いを管理するマクロなもの。
全体のコメント:
フーコーはここで「碁盤目状の監視システムの厳しさを語っているようにみえる。だが二つの留保がある。
・このシステムは「下層民」と呼ばれる人の「動き」によって支えられている。
・距離をおいてみれば、これは現代の「リスク管理社会」「セキュリティ社会」そのものである(違いは否定しない)。このことをどう考えるか。「健康な社会」の裏面にこうした「監視システム」の下支えがある。これを「悪」といえるか。