『監獄の誕生』演習の手引き
フーコーの権力論、とりわけパノプティコン(一望監視装置)を翻訳でよみ、それでフーコーが何を考えていたか、新しい可能性を引き出していくことを目ざす。
通常のイメージ:
・いたるところに権力がある。ひとはみえない権力にたえずおびえて生きている→ 権力に逆らうことを無力化してしまう
・監視社会を予言している。→ 情報社会、コロナなどによって監視社会・管理社会の支配がますます強まっている。
・自動的な権力のテクノロジーのおそろしさ。監視カメラ等につながる。
――
解釈:
「左翼」的:監視のイデオロギーは今日ますます強まっている。それは資本主義の高度化による。フーコーはこうしたイデオロギーを打ち壊すことを目指している。
「右翼」的:フーコーは権力や国家は「悪」ではない、肯定的なものだと言っている。彼は近代の「精神」がどのように生まれてきたかを肯定的に語ろうとしているのだ。
フーコー自身の発言
・フーコーはイデオロギーという用語を嫌う。イデオロギーが壊されれば真の理想的社会が生まれるというのは幻想である。
・18世紀にパノプティコンは、すばらしいアイディアとして受け入れられた。厳格で残酷な見せしめ型をやめ、刑罰を緩和し、囚人の身体のみに罰を与えるのではなく、「こころを矯正する」ことを目ざした。これは18世紀啓蒙主義であり、「人間」中心の刑罰の模索である。
→ (廣瀬)とはいえ、フーコーはこれをたんに肯定するのでもない。「人間的」とか「人間的自由」といった啓蒙主義的な考え方の「起源」をさぐろうとするもの。これをフーコーは「近代精神の系譜学」とよぶ。フーコーに拠ればこの起源はじつにとるにたらないものでもある(起源や近代化の神話化を避ける)。
・それにしても、この「近代の精神」は現代の「こころ」や「自己」の時代について深く考えさせるものではある。このことに気づいたゆえだろうか、フーコーはある時期に権力論をやめ、「生の技法」「自己への配慮」といった主題を模索していたが、残念なことに道半ばで亡くなってしまった。「セクシュアリティ」の問題も、この「自己との関係」という主題に大きくかかわる(秋学期のテーマ)。
『監獄の誕生』の流れ(目次参照)
演習のやりかた:
『監獄の誕生』
テーマ:17世紀末のペスト対策のありかた
- 226上段―下段一段落目:「碁盤目状のシステム」
・空間の碁盤割り
・地帯の封鎖、「うろつく」動物の屠殺、代官を地区ごとにおく、世話人を街路におく→ 注意:世話人も監視されている
・外出の禁止、鍵の管理(いまでいえばセキュリティ??)
・食糧調達のシステム化。
・出入りの管理。接触の管理(いまでいえばコミュニケーションの管理?)
しかし「自由」なひともいる。
・「「死体泥棒」。「下層民」のみ自由な行動が許されている。「病者を運び、死者を埋葬し、相似し、多くの卑劣な仕事をする下層民」(226下)。
ここまでのコメント:
碁盤目状の管理、人員の配置によって、住民の「動き」を徹底管理。→ しかしこれは感染しないようにという「リスク管理」でもあるので、「横暴な権力」とも言いにくい。
このシステムはじつは「下層民」の存在がなければ成り立たない。動物でも「うろつ」けば殺されるが下層民は自由に動いて衛生管理。下層民が権力を動かしているともいえる。真に「しいたげられている」のは住民より下層民。
・「無秩序に気をくばる」ための人員配置
・監視所の見張り番
・世話人の行動も監視される。→監視は一方的ではなく、監視するものも監視されるというシステム。→ 究極の監視主体はいるのか??
・健康状態を報告させること。
・死者や病人をあぶりだすための調査。→病人が隠されていることは感染源が隠されていること。リスク管理の徹底
・「生者と死者を調べ上げる大がかりな査閲」(227上)
コメント:
この段落では「世話人」という人がどういう役割を演じているかが記述されている。究極的に管理されるのは「生と死」「病いと健康」である。→ 後のフーコーはこのことを後に「生の権力」と呼ぶ。監獄は「個人」の管理だが、「生の権力」は「住民群(自治体)」の健康と病いを管理するマクロなもの。
全体のコメント:
フーコーはここで「碁盤目状の監視システムの厳しさを語っているようにみえる。だが二つの留保がある。
・このシステムは「下層民」と呼ばれる人の「動き」によって支えられている。
・距離をおいてみれば、これは現代の「リスク管理社会」「セキュリティ社会」そのものである(違いは否定しない)。このことをどう考えるか。「健康な社会」の裏面にこうした「監視システム」の下支えがある。これを「悪」といえるか。