廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

2017-11-01から1ヶ月間の記事一覧

メモ:芸術的価値の創設

前日の論文からのメモ ・マルローの個人主義が全体主義の裏返しであることと、写真という「俯瞰」の技法が連動していること。写真に「技術的オペレーション」(シモンドン)を見ることができず、線遠近法の代替物としている観念論。 ・「戦闘する有限性」と…

佐藤勇一『出来た作品と完成した作品』

http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/4832/1/L625_sato.pdf

先端文化学研究6(修正版)

コメントより ・教えるとは何か ・触覚的感覚がうまく機能していないとき、他の感覚器官を同じに機能させられるか→代償行為 ・差異を感じること=差異を認知しよう、ではなく、「呼吸をしよう、したい」というキネステーゼ ・感覚や経験はあいまい→神経現象…

授業資料(必読):セザンヌの懐疑:教科書ガイド(修正版3)

ここまでの廣瀬メモ(課題および注釈)第二版大きな問題 1)セザンヌの「病理」と「作品」の関係。作品は病理の現れ、と考えると「自由」の契機がなくなってしまう。どう考えればよいのか。 → このテクスト全体で考え、まとめることができるか。 cf. 生(人…

セザンヌの懐疑6:未来完了の書き込み

「しまった、デリダやラカンみたいなことを言ってしまった」 「そういうのはもうやめたほうがいいよ」 「はい」 「問題は単純で、主観的・個人的感覚が、他者に受容されて、間主観化して芸術が制度化する、 という問いの立て方は間違った問いだというだけの…

セザンヌの懐疑5 セザンヌの感覚は「ない」

(つづき) 「これまでのことをわたしなりに整理すると、モチーフっていうのは、たとえば林檎が林檎として現れるときに、それを取り巻いている雰囲気みたいなもので、それを「つかま」ないと林檎は林檎として現れない。この雰囲気みたいな全体性と、あるひと…

せざんぬの懐疑よん:制度化から間主観性へ

つづき「制度とか創設とかいうと、どちらかというと行動規範や意志の介入を感じてしまうのだけれど」 「じつはそのあたりも射程に入れたいからこそ、この言葉を使う。画家が筆を動かすとき、そこで 触知されている時空間、そしてそこで筆がおろされる。そこ…

セザンヌの懐疑3:視覚から制度化へ

(続き) 「デフォルマシオンはまだ視覚的な問題にすぎなくて、セザンヌが表現しようとしたのはある意味世界全体なのだ」 「世界と言われても」 「じゃあ風景全体くらいにしておこう」 「こんどは全体主義ですか」 「ちがう。セザンヌのモチーフという概念の…

観世寿夫の井筒から

身体とは「起こらなかったことがありえなかったような出来事」が到来する場である。記憶を越えた過去の出来事でありながら、それは現前野において、いわば目の前に繰り広げられていく。私たちはいわば後ずさりするようにして、この出来事に遡っていく。現在…

歓待について

「『歓待』って要するにおもてなしのことでしょ。別にデリダに聞かなくても日本は歓待の国なんじゃないだろうか」 「....」 「わざわざ歓待とか言うのは、ヨーロッパがそれだけ植民地主義だったからじゃないだろうか」 「...」 「アジアにかぎったとしても、…

セザンヌの懐疑2

(つづき) 「そうかも。いずれにせよ、あなたの言うように、受動的感覚と能動的統握の交差点に、セザンヌのイメージの技法が位置している。彼が創発の可能性を賭けるのもそこだ。そのために過去の技法と、最新の科学を投げ込んでみてもよい。だが技法と科学…

「セザンヌの懐疑」1

「セザンヌの絵画って病的って言っていいのかな?」 「いや、あれこそ自然的な知覚に近いのだ。心理学者もそう言っている」 「なるほどー、生きられた知覚ってやつか」 「そのとおり」 「あれ、自然的な知覚なのに、心理学を勉強しなきゃだめなわけ?」 「う…