メルロ=ポンティの言語論(『メルロ=ポンティ・コレクション』)
前回のふりかえり
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(質問より)
・「両義性の哲学」:「哲学の中心にはパラドックスがある」例)心身の分離と結合(デカルト)
・まわりをとりまく言葉にたいして構えておくことで、不在のもの(見えないもの)を把握できる
・情報を「なぞる」こと。無数の要素から新たに何かを生み出す有機的システム
・コミュニケーションの「幻想」(16)
・他者が発した言葉から他者の考えを知り、自分の思考を深める
・身振りとの関係については、p. 31以下で再説
・自明性の「括弧入れ」としての現象学。現象に驚くような場の開け。
難解なテクストの例。
・読書経験の流れのなかで、はじめは、「あらかじめ知っていたこと」しか読みとらない。だがあるとき、「新しい思考」に出会い、それがテクストを再組織化する。この「新しい思考」こそが書物の源泉である。この源泉をメルロ=ポンティはのちに「沈黙」(27)と呼ぶ。この沈黙には直接たどりつくことはできず、私たちはいわばテクストそのものになって、格闘しなければならない。そのとき「ふと」新しい思考がめばえるのである。新しい思考の芽生えのためには「間接性」と「受動性」が必須である。
絵画や音楽と言語の違い。言語では、私たちは「共通の意味」をあらかじめ知っていると錯覚している。だが音楽や絵画では、作曲家の音色や絵画の色調や空間は画家独自のもので、私たちはそれに入りこまなければならない。メルロ=ポンティは言語にも同様の作業があると考える。それが「語の意味の作り替え」である。
独自性:イメージは知覚が弱まったものではない。想像力のはたらきは、「独自な志向性(対象そのものの意味との関係)である。いまここにいないピエールをわたしは直接目ざす。そのようにして私は自分自身から出て、自己を超越する。
ただし知覚と根本的に異なるのは、そのイメージを「さらに深く観察すること」はできないことである。
想像的意識は、対象を「無」として措定する。イメージは対象をここにいないもの、ふれえないものとして与える。そこには「無」が含まれている。だとすれば「想像的な意識」は「無化」するものである。
→ メルロ=ポンティはこのサルトルの説から出発するが、サルトルのようにきっぱりと、知覚と想像、存在と無をわけることはしない。メルロ=ポンティの「知覚」は両者を含むようなもの(知覚的な世界にも、その「地平」(20)において、見えないものがうごめいているという考え方)。見えるものの世界は、なかば受動的にあたえられる「見えないもの」によってひそかに織りなされている。
→
・「わたしの想像力とは、自分の周囲にわたしの世界が存在し続けることにほかならない」「ピエールの振る舞い」が私の世界で作動する。そのとき私の世界は、他者や過去(過去のピエールの振る舞い)にたいして開かれてある。それは「姿勢をとる」(22)といった半ば能動的、なかば受動的な身体のありかたである。
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「思考は表現である」(22)
翻訳修正:<顔>→表情、意味作用(signification)→意味、意義
言語は思考の記号ではなく、「表現」である。
・テクストの意味を理解せずに「調子をつけて」読める患者。これは「実存的身振り」「スタイル」「情緒的な価値」などが、ことばの意味や概念に先立つものとしてあることを示している。このような実存的な身振りが、ことばに不可分のものとして「住みついて」いるのである。
「読書」とは何か(24)。書物は、作者と読者のあいだで、生命をもつような有機体として、感覚器官として、存在するようになり、わたしたちに新しい経験の領域をひらいてくれる。
ソナタの例。俳優の例。「表現という営みが、意味を実現し、実行しているのであり、たんに翻訳しているのではない。おなじように、表現以前になにか思考そのものがあるとかんがえてはいけない。すでに利用できる意味が、未知な法則にしたがって結びつき、あらたな存在が存在し始めること。
他者の意図を受け取るということはどういうことだろうか(26)思考の操作ではなく、私自身の実存がこれに同調して変化すること、私の実存が変化することである。
「偶然的なもの」との出会い(27)