廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究5 0417 小銭で現象学!

現象学を「小銭で」実践する!

現象学」は二〇世紀初頭にドイツのフッサールによって切り開かれた学問であるが、その後ハイデガーサルトルメルロ=ポンティデリダレヴィナスアーレントなどによって引き継がれるとともに、その応用範囲は飛躍的に広がる。いわゆる現象学者のみならず、フーコードゥルーズ、リオタールなどにも多大な影響を与えており、また英米の思想(ウィットゲンシュタイン)や(ポスト)構造主義とも重なり合う。
 現在では、心理学、社会学、人類学、看護学、ケア学、芸術学、精神医学、臨床哲学、間文化現象学など、より実践的な場面でさまざまな応用されている。それは、凝り固まった学問ではなく、「現象学運動」とでも言うべきなのである。現象学を理解しなければ現代の思想はわからない、と言われるゆえんである。
 したがって現象学への「入門」の仕方も多様であり、「現象学とは何か」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』の序文)という問いはたえず繰り返されてきた。現象学者であるとは、あたかも多様な経験の場面において、そして他者との出会いにおいて、そのつど「生まれ直す」ようなことを試みる人たちの集団なのかもしれない。多様な場面での「経験の変容」を「現場で」押さえ、そこに生まれる「意味」を拾い上げていく辛抱強い試みこそが現象学である。誰もが現象学の「入門者」であると同時に、永遠に「入門者」であるとも言えるのだ。ある意味では、世界の風景や人物に「問いかけ」を発し続ける芸術家のほうに近いかもしれない。カフカ「掟の門前」
 したがって現象学とは体系的な学問であるというよりは、個々の事象(意識の流れ、他者との出会い、共同体のありかた、文化の意味の生成)にたいする、ある種の「問いかけ」の方法の集まりであるともいえる。それは外部から理論を構築したり、すでに定まった方法をあてはめたりするのでもなく、いわば「小銭」で思考するのだ。したがって本授業では、現象学を体系的に講義するよりは、現象学者の短いテクストを読み、それを議論することで、みなさんの「経験」の枠組そのものを拡張していくことを目指したい。
現象学のキーワード:
・「事柄そのものへ!」、志向性、現出(現れ)と現出者、現れと隠れ、直接経験、時間性、空間性、生きられた時間、生きられた空間、超越論的自我、世界の発生、意味の発生、地平、流れつつ立ち止まる現在、誕生、贈与、他者、間主観性(相互主観性)
現象学者たち
フッサールハイデガー、フィンク、シェーラー、ヤスパース
サルトルボーヴォワールメルロ=ポンティ、リクール、レヴィナスデリダ、アンリ、バシュラール、マルセル
西田幾多郎、九鬼周三、和辻哲郎
・シュッツ(社会学)インゴルド、菅原和孝(人類学)アフォーダンスオートポイエーシス(心理学)、看護ケア(西村ユミ)ディディ=ユベルマン、中村英樹(現代アート木村敏、ビンスワンガー、ブランケンブルクヴァイツゼッカー、ミンコフスキー(精神医学)エスノメドドロジー社会学小野紀明(政治哲学)市川浩(身体論とアート)鷲田清一(いろいろ)、野家啓一物語論)宮本省三(リハビリテーション
現象学の信頼できる「入門書」(入手しやすい安価なもの)
・谷徹『これが現象学だ!』(講談社新書)
・田口茂『現象学という思考——自明なものの知へ』筑摩選書
・新田義弘『現象学』(講談社学術文庫
木田元現象学』(岩波新書)『現象学の思考』(ちくま学芸文庫
・渡辺恒夫『夢の現象学入門』(講談社メチエ)
・山口一郎『現象学ことはじめ』(日本評論社
・ダン・ザハヴィ『初学者のための現象学』(晃洋書房
河本英夫・稲垣諭編『現象学のパースペクティヴ』(晃洋書房

問い:現象学は一般に「生きられた経験」への回帰を目指すとされる。だが「生きられた経験」とはなんだろうか。

フッサールの根源的着想としての「経験」:Cf. 谷徹『これが現象学だ』渡辺恒夫『夢の現象学入門』より

マッハ『感覚の分析』(1886)の「自画像」

学問・科学の基礎は「直接経験」にある。直接経験とは?
・たんなる「刺激」ではない。
・上図は「主観的」「一人称的視点」
・しかし私たちにとって「自明」なのは、「他人のなかの私」「みんなと同じ私」ではないか。→ 自画像を描くとき、ひとは鏡を見て、「他人からみた自己」を描いてしまう。ふつうひとは自分を「客観的にみてしまっている」のだ(「上空飛行的思考」メルロ=ポンティ

上図のような「現れ」のほうが、自明性を停止しないと出てこない見えではないだろうか。しかし上のような見えは、ひそかに私たちの共同生活の中でつねに「隠れて働いている」のではないか(身体性)
・自明性の「括弧入れ」「エポケー」。「自然的態度」の還元(引き戻すこと)

現象学はマッハにはとどまらない。
・こうした光景のなかで、私たちは客観的な対象が「そこ」にあることも信じている。対象の「存在」(現れるものそのもの)へとどのように至るのか。
・「志向性
見かけ(現出)を「突破」して、しかしマッハ的な光景の外に出ることなく、「対象の存在」(現出者)へと至ること。→ 現出の「多様性」を「突破」して現出者の同一性を現す。
・さまざまな現れが「媒介」していること。にもかかわらず「なにかあるもの」が見えること。この矛盾した事態を引き受けるのが現象学
・このことをフッサールは意識が対象の意味を構成する、という。だがこの場合意識は、むしろ対象がおのずから現れてくるようにするものでもある。この意識の働きは能動でも受動でもある。

さらに先へ
・マッハの「自画像」はもっぱら視覚的、しかも片方の目による色彩のない「見え」だけを描いている。

・視覚以外:五感すべてで得られる「対象」の質感、存在感は捨象されてはいないだろうか。触覚、聴覚、味覚、嗅覚、聴覚をいれてみるとどうなるだろうか。
→ 認識をひそかに支える身体性の研究(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)

・時間性:この絵には時間の流れがない。時間的な流れの要素(過去の記憶、未来の予期)を入れるにはどうすればよいか(フッサール『内的時間意識の現象学ちくま学芸文庫)(たとえば印象派がこころみたように)。

・他者:この光景のなかに「他者」はどのように登場するのだろうか。(間主観性の問題)。「もの」はどうやって「他者」になるのか。
サルトル:のぞき見していたときに不意に声をかける「他者」にたいする「恥」の意識。

・このマッハ的光景と言語との関係。現出は現出者の「記号」か。

精神分析的知見:フロイトが分析した夢の空間、あるいは幼児期の経験の影響などが、現在の見えにどう入り込んでくるか。そうしたものがこの光景に「歪み」を与えることはないのか。(ものや他者が自分に入り込んでくるように感じる病理)。
ゴッホジャコメッティ