2017-01-01から1年間の記事一覧
『眼と精神』キーワードメモ ・視覚と運動の絡み合い。驚くべき重なり合い。→ 重なり合いは「ずれ」も含むか。 ・地図の比喩 ・身体はみずからを動かす。 ・見る者であると同時に見えるものでもある。相互が相互に内属するp. 260-261 ・物のあいだにとらわれ…
リズム論について ・クラーゲス『リズムの本質』 ・ドゥルーズ『千のプラトー』「リトゥルネロ」の章 ・山下尚一(超越論的リズム)『ジゼール・ブルレ研究―音楽的時間・身体・リズム』(ナカニシヤ出版) ・土方巽(プリント)◎ 問い : ナルシシシズムにつ…
指しゃぶりのようなナルシシズム(自分の身体が痛い)、遊具との戯れ → 「そこ」で「なにか」が「生起している」こと → その出来事への「引き込まれ」 → その場における「他」なるものの生起 → それと「対位法」的に生起する外部の 出来事 → 両者の境界の生…
セザンヌの懐疑メモ、その2 ・シンボル:病的なものの「記号」ではない(意味との「差し向かい」ではない)10 ・セザンヌの「デフォルマシオン」について。生まれつつある秩序、根源において捉えられる自然(16)として・「奥行き」について。この問題につ…
来週の小レポートについて 目的:期末レポートの課題となるような問いを立て、それに答えるための材料集め、分析結果の見通しを立てる。土方、オートポイエーシス論、人見眞里の発達論などをひろく論じることが望ましい。評価点: ・講義の内容に即した課題…
前日の論文からのメモ ・マルローの個人主義が全体主義の裏返しであることと、写真という「俯瞰」の技法が連動していること。写真に「技術的オペレーション」(シモンドン)を見ることができず、線遠近法の代替物としている観念論。 ・「戦闘する有限性」と…
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/4832/1/L625_sato.pdf
コメントより ・教えるとは何か ・触覚的感覚がうまく機能していないとき、他の感覚器官を同じに機能させられるか→代償行為 ・差異を感じること=差異を認知しよう、ではなく、「呼吸をしよう、したい」というキネステーゼ ・感覚や経験はあいまい→神経現象…
ここまでの廣瀬メモ(課題および注釈)第二版大きな問題 1)セザンヌの「病理」と「作品」の関係。作品は病理の現れ、と考えると「自由」の契機がなくなってしまう。どう考えればよいのか。 → このテクスト全体で考え、まとめることができるか。 cf. 生(人…
「しまった、デリダやラカンみたいなことを言ってしまった」 「そういうのはもうやめたほうがいいよ」 「はい」 「問題は単純で、主観的・個人的感覚が、他者に受容されて、間主観化して芸術が制度化する、 という問いの立て方は間違った問いだというだけの…
(つづき) 「これまでのことをわたしなりに整理すると、モチーフっていうのは、たとえば林檎が林檎として現れるときに、それを取り巻いている雰囲気みたいなもので、それを「つかま」ないと林檎は林檎として現れない。この雰囲気みたいな全体性と、あるひと…
つづき「制度とか創設とかいうと、どちらかというと行動規範や意志の介入を感じてしまうのだけれど」 「じつはそのあたりも射程に入れたいからこそ、この言葉を使う。画家が筆を動かすとき、そこで 触知されている時空間、そしてそこで筆がおろされる。そこ…
(続き) 「デフォルマシオンはまだ視覚的な問題にすぎなくて、セザンヌが表現しようとしたのはある意味世界全体なのだ」 「世界と言われても」 「じゃあ風景全体くらいにしておこう」 「こんどは全体主義ですか」 「ちがう。セザンヌのモチーフという概念の…
身体とは「起こらなかったことがありえなかったような出来事」が到来する場である。記憶を越えた過去の出来事でありながら、それは現前野において、いわば目の前に繰り広げられていく。私たちはいわば後ずさりするようにして、この出来事に遡っていく。現在…
「『歓待』って要するにおもてなしのことでしょ。別にデリダに聞かなくても日本は歓待の国なんじゃないだろうか」 「....」 「わざわざ歓待とか言うのは、ヨーロッパがそれだけ植民地主義だったからじゃないだろうか」 「...」 「アジアにかぎったとしても、…
(つづき) 「そうかも。いずれにせよ、あなたの言うように、受動的感覚と能動的統握の交差点に、セザンヌのイメージの技法が位置している。彼が創発の可能性を賭けるのもそこだ。そのために過去の技法と、最新の科学を投げ込んでみてもよい。だが技法と科学…
「セザンヌの絵画って病的って言っていいのかな?」 「いや、あれこそ自然的な知覚に近いのだ。心理学者もそう言っている」 「なるほどー、生きられた知覚ってやつか」 「そのとおり」 「あれ、自然的な知覚なのに、心理学を勉強しなきゃだめなわけ?」 「う…
オートポイエーシス ・「自己制作」ポイエーシス⇔テオリア(精密科学知。「観察者」の視点)。認識と制作行為、認知と行為との区別を問題視。Cf. フランシスコ・ヴァレラ『オートポイエーシス』フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ『身体化された心…
メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)思想の特徴 1) デカルト的心身二元論の乗り越え 2) 現象学の深化。とくに論理主義的なフッサールではなく、後期のフッサール(身体論、他者論、時間論、言語論)からインスピレーション。ハイデガーとも重なる…
今日の問い 1)「物は、(…)いわば、ひそかに、内部から照らし出されているのであって、光がそれから発している。そして、このために堅固さと物質性という印象が生ずるのである」(14) 2)セザンヌのパラドックス。「感覚を離れ去ることなく、直接的な印…
今日の問い 1)「物は、(…)いわば、ひそかに、内部から照らし出されているのであって、光がそれから発している。そして、このために堅固さと物質性という印象が生ずるのである」(14) 2)セザンヌのパラドックス。「感覚を離れ去ることなく、直接的な印…
まえがき 芸術作品について語ることは、芸術を「イラスト」にして自分について語ることではない。「芸術の鑑賞は自由だ」と考える人も多いが、そういう人にかぎって、出て来る言葉は画一的である。この画一性を壊すためには、「感性的なもののロゴス(言語、…
小レポートより ・「顔」とインターネットについて→ デリダ。「他者を受け入れる」ことにおける「公共空間」と「私的空間」の関係の混乱 ・障害と他者の身体感覚 ・障害と「共苦」の問題 ・自画像と鏡 ・食べること:「イリヤ」と「自他意識」 ・享受によっ…
○ 生活世界(Lebenswelt)cf. フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(中公文庫) ――――――― エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas)(1906-1995)リトアニア生まれ、フランスストラスブールに学ぶ。初期のフッサール研究『フッサール現象…
1-4についてのコメントより ・写真は人間の目に近い機能を持ち、人間の認識能力に近いものか ・写真を見るとき、写真の中に写る物をイメージ化して、それを写真自体と同一化する。写真そのものは純粋に見ない → そもそも私たちが何かあるものを見るとき、パ…
ロラン・バルト『明るい部屋』1-4 I. 議論の流れ: 問い:「写真」とは〈それ自体〉なんであるのか。= 写真をほかの芸術と区別するものは何か(p. 7)。問いに答えるための手がかりとその困難 1) 従来の分類は写真の本質とは無関係。写真の「新しさ」を示し…
科学文化論 IIA 一九五〇年代のメルロ=ポンティ:『コレージュ・ド・フランス講義要録(Résumés de cours1952-1960)』読解をとおして1945年の『知覚の現象学』以後、サルトルとともに『現代(Les Temps Modernes)』で活躍していたメルロ=ポンティは、195…
現象学を「小銭で」実践する!「現象学」は二〇世紀初頭にドイツのフッサールによって切り開かれた学問であるが、その後ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、デリダ、レヴィナス、アーレントなどによって引き継がれるとともに、その応用範囲は飛躍的に…
コメントより 「ベーコンの叫びによる脱出は、万人に共通する感覚を見つける行為なのではないか」 ・感覚的なものの間主観性 ・他者の感覚の経験可能性。 → 画家の営みに注目することは、このような感覚の普遍性のみを画家が追求したからではないか。 メルロ…
コメントより ・「観念」はどのようなものとしてあるのか? ・痕跡(マーク)と手のたえざる車輪。画家ではない私たちはどう認識し、どう選択すべきか=身体的な次元の働きを、言語、社会へとどう応用できるか。 ・偶然性はすでにあるものなのか。。。。 ー…