廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『感覚の論理』まとめに向けて

コメントより
・「観念」はどのようなものとしてあるのか?
・痕跡(マーク)と手のたえざる車輪。画家ではない私たちはどう認識し、どう選択すべきか=身体的な次元の働きを、言語、社会へとどう応用できるか。
・偶然性はすでにあるものなのか。。。。
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振り返り
1)具象(figuratif)と抽象(abstrait)の間にあるFigure(図像、形象、形体)
・イラスト的・物語的機能を持たない「非意味的な(非シニフィアン的な)筆跡=線(traits asignifiant)。(17)

=「対象」とはならないが、たんなるカオスでもないような「非意味的な線」に私たちはどのように接することができるでしょうか。日常生活においてそのような「非意味的な線」を見出すことはできるでしょうか。

手がかり:それは「感覚し得ない」が「感覚」によってしか触知しえないものである。目=対象化だとしたら、むしろ触覚的なものに近い。ちょっとした細部において気づかれるようなものでありながら、全体の雰囲気を変えてしまうようなもの。

「私はFigureとおなじように影に存在感を与えようとした」(ベーコン)。(18)
・平塗りとFigureの連結。そのあいだの「輪郭」
・「浅い奥行き」の世界。レリーフのような世界。高さも幅もなく、深さだけがほんのりと感じられるような世界。
cf. 『自閉症だった私に』(新潮文庫)建物に裏があるとは考えられない。
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宗教性との関係
グレコ(22):神が存在するのですべてが許され、あらゆる感覚の異なる水準が同居する。
・近代ではどうなるか?(24の問題提起を参照)
ベーコンにおける痙攣的なものと歪形(déformation)
「ベーコンの叫びは、身体全体が口から脱出するという動作である」(31)
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動物性の問題。動物になること
磔刑図と肉への慈悲(38-39)
_頭部と口(40-43)
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動物になることは、知覚不可能なものになることへの一段階にすぎない、そこではFigureは消え去る(45)

→ 映画論との関係
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レポートの出し方について