2015-01-01から1ヶ月間の記事一覧
『知覚の哲学』第五章「外部から見た人間」においてメルロ=ポンティは、彼の知覚の哲学の立場から、他者がどのように現れてくるか、そして「人類」という他者との「共存」ないしは「共存在(Mit-Sein)」がどのように可能かを模索している。 講演の前半で彼…
ストア派の生(セネカ、マルクス・アウレリウス、エピクテートス)(『主体の解釈学』) ・アスケーシスが禁欲ではなく、ポジティヴな訓練であったこと。 ・思考=行動がひとつのもの ・ それにより、主体はみずからを「ロゴスの主体」に変容させ、不意の出…
他者論の迷宮: ・私たちにとって他者の存在は「自明」、社会学者は人間が社会的に規定されていることを「前提」 ・現象学は、他者の存在を一度「括弧に入れ」、他者としての他者の「意味」が自己にどのように現れてくるかを考察する。 ・他者論の難しさ。 …
「自由の実践としての自己の配慮」(『ミシェル・フーコー思考集成X』。『フーコー・コレクション6』所収)問題点: 1) 主体と真理の関係の問題とは何か? ・ 「人間的主体はどのように真理のゲームに入り込むか」。 ・ 真理のゲーム:科学、コントロール…
フーコーの「抵抗」概念に意味があるとしたら──それほど大きな意味はないと思うが──、「抵抗が先にある」というテーゼである。これは自己の自己に対する抵抗であり、いかなる超越的なものも前提しない自己抵抗である。とはいえ、この自己抵抗が真理の諸体制…
フーコーは1970年代終わりから、『監獄の誕生』に代表される、権力と知の関係という問題を捨て、「主体」はなぜ「自己の真理」に縛られていくのか、という問題を立てる。このことは何を意味するのか。 参考文献: ・ 『自己のテクノロジー』 ・ 『主体の解釈…