廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究演習 1月20日 他者論の迷宮

他者論の迷宮:
・私たちにとって他者の存在は「自明」、社会学者は人間が社会的に規定されていることを「前提」
現象学は、他者の存在を一度「括弧に入れ」、他者としての他者の「意味」が自己にどのように現れてくるかを考察する。
・他者論の難しさ。
1) 他者とは、私たちと同じように、精神と身体を備えたもの。
・私の精神が他者に完全には現れないように、他者の精神も完全には現れない。
・これは「他者」が「もう一つの自己」alter egoであるから。つまり私とは別(alter)であると同時に、私とは同じように「自我」(ego)を持つから。他者は私と同じであると同時に異なる「分身」のようなものとして現れる。
解決策の萌芽→ 自己そのもの、「私」と「私」の関係がすでに一種の「他性」を孕んでいること。時間の流れにおいて、私がつねに異なりつつ同じものであるように、自我は「同一でありつつ異なる」もの。自我にとっても自我は一種の他者。他者もまた他者にとって他者である面があるはず。このようなものとして、他者は自我に「間接的に」「斜めに」現れる。=他者を「自」と「他」、「現れ」と「不在」の対立で語ることはできないということだ。

2) 他者との「共通世界」「公共性」について
現象学は、これがどのようにして可能かを問うので、それを前提した議論はしない。むしろそのような自他の共存がどのようにして可能か、問う。
・通常は、「言語」がこれを可能にすると考える。だがこれは言語はすでに「共通性」(一種の契約)を前提しているので、これも括弧に入れなくてはならない。
・ 「知覚」モデル:私と他者はあるものを違う「パースペクティヴ」「視点」から見ているのに、同一のものを見ているという確信を持っている。あるものを見るとき、それを取り巻く「地平」も一緒に「見ている」。この地平を「媒介」に、パースペクティヴが「絡み合う」ことがあるのではないか。
・ 「私が見る」という行為の中には、すでに「見えるものがおのれを見せる」という可能性が先立っているのではないか。
・ このような絡み合いには「情動」や「欲望」が重要な役割を持ってはいないか。あるいは「ものそのもの」を表現するという行為こそが、「共通な意味」を作り出すきっかけになるのではないか。
参考文献:
フッサールデカルト省察』(岩波文庫