廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化研究:自由の実践としての自己への配慮(1月14日)

「自由の実践としての自己の配慮」(『ミシェル・フーコー思考集成X』。『フーコー・コレクション6』所収)

問題点:
1) 主体と真理の関係の問題とは何か?
・ 「人間的主体はどのように真理のゲームに入り込むか」。
・ 真理のゲーム:科学、コントロールのための制度・実践。
・ これまではそれを「強制のための実践」(精神医学、懲罰)や科学(経済学・言語学・生物学)との関係で考えてきた。
2) 自己の実践の研究へ。ギリシア・ローマ、キリスト教、教育制度、医学・精神医学
「禁欲的な実践」:自己放棄ではなく、自己に対する「訓練」(修練、修徳)。自己の錬磨や変容を行う。
・ 注:「禁欲」(ascetism)。ギリシア語の「アスケーシス」から来る。これが自己(の欲望)を放棄すること、と理解されたのは、キリスト教以降。たとえばその前のストア派においては、「アスケーシス」とは、未来の災厄に対して防御すること、そのために真理を身体化することと考えられていた。それは「備え」として、身体に組み込まれるものであり、身体から何かを取り去ることではなかった。
3) これは「自己解放」なのか?
・ 「本来的な自己」が抑圧、疎外されていることからの解放というのなら違う。
・ 「解放」だけではなく、「自由の諸実践」が必要。ex. セクシュアリティの例。
・ したがって「権力諸関係」=支配、では自由はない。
・ 4)ギリシア・ローマにおける「自己の配慮」。キリスト教の自己犠牲、自己放棄を理想化したため、自己の配慮は「エゴイズム」や「自己愛」になってしまった。本来は「自己を形成し、欲望を統御する」こと。
ソクラテスプラトン:自己への配慮が「汝自身を知れ」という自己認識に隠されてしまう。
ストア派の自己への配慮(=振る舞いの規則、真理=指示の規則、真理を身に備える。「あなたはロゴスとなり、ロゴスがあなた自身となる」(223)
エートス(倫理):存在様態、振る舞いのスタイル。他人の目に見える、行動様式。服装、身のこなし、歩き方、不意の出来事を前にした平静さ。=自由の実践。
・ 自己への配慮は、他者との関係を含む(227)。妻や子や家を立派に統治すること。社会でしかるべき地位を得ること。指導者の教えを聞くこと。ただし「他者への気配り」が先ではない。「おのれのエートスを知り、何をできるかを知り、統治術を知り、おそれるべきこと、希望を持つべきことが何かを知り、死をおそれないならば、他者を支配しようとは思わない」(228-229)。
キリスト教:死のおそれのため、救済を求めて自己放棄。
ギリシア・ローマ:「おのれ自身の生命において自己に気を配る」「死を受け入れること」「急いで歳をとろう、はやく人生の終わりに向かおう。そうすれば自己と合流できる」(セネカ)。
・ 権力諸関係もある種の自由を前提としている(234)いたるところに自由があるから権力諸関係がある。
・ spirituality : 主体がある種のエートスに至ること、そのために主体が行わなければならない変容。これは自己認識や科学の基礎付けという目的に覆い隠されてきた(237)
西洋文化:真理への気づかいを通してのみ自己を気づかう。「エコロジー」の例(239)
→ 別のやりかたで真理のゲームをすること。「ゲーム」=真理の生産の諸規則の総体(242)
・ ハーバマスのように完全なコミュニケーションを目指すのではなく、支配を最小限に抑えるように真理のゲームをすること(243)。教育の例。
・ 権力(力)関係のゲーム:統治のテクノロジー:支配状態。


まとめ
フーコーが「自己への配慮」と呼ぶものは、自由の実践と真理のゲームとの関係を変容させることを目指すものであった。そのためには、主体は、たんなる認識の主体ではなく、「配慮」の主体、つまり自己に働きかけ、ロゴスそのものとなり、不意の出来事に備え、そして自己を変容させるような主体とならなければならないのである。
・ これを彼は「自己の統治」とも言う。自己のよき統治は、他者をよく統治するための条件でもある。
フーコーは「たんなる力関係」「統治」「支配」の三つを区別する。自由の可能性がかかっているのは、自己と他者の統治である。「力関係」はつねに自由を前提するが、それは逆転する可能性もあるし、一方的な支配になってしまう可能性もある。力関係が支配になってしまわないためには、「自己と他者たちの統治」という第三の要素が必要なのである。それはひとが既成の「真理のゲーム」に従属してしまわないために、自己のエートスを確立する自由なのだ。