廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

科学文化論イントロ

題名:フーコーの真理論と統治論──真理と裁判形態

主題:「真理と裁判形態(形式)」は、1974年のリオデジャネイロでの講演である。いわゆる『監獄の誕生』が1975年、生ー政治について語る『性の歴史』第一巻が刊行されることを考えれば、この講演は彼の「権力諸関係」の理論と結び付いているように思える。ところが冒頭から彼が強調するのは「主体」の問題、主体の真理の問題であり、これは一般には、権力論以後の行き詰まりを打破すべき問題系と考えられてきた。しかしこの問題は、70年代のフーコーを貫く哲学的なモティヴェーションであったという仮説のもと、「主体の真理」の問題の意義を探る。

内容:この講演は、5つの講演から成る。
1)イントロ、主体論の意味、真理のいくつかの形態、それがニーチェのある種の読解を背景としていること。「知への意志」という問題系。
ニーチェフーコーにとって、たえざるインスピレーションの源であった。その読解はたしかにかなり限定的なものであるが、彼にとってニーチェが何であったのかを、「認識」の問題を中心に検討する。

2)『オイディプス王』読解。『アンチ・オイディプス』とは異なる読解。
フーコーはすでに70年代初頭の『<知の意志>講義』からソフォクレスの『オイディプス王』読解を繰り返している。それらを比較対照するのも興味深いが、ここでは権力と知の関係の問題が、やがて「主体と真理の関係」の問題へと移行するのを確認できる。フーコーにとってオイディプスは、無意識の人、非知の人ではなく、むしろ「知りすぎた人」、過剰な者である。この分析とニーチェ論との関係はいかなるものか

3)中世の裁判形態。
ここでは「試練」さらには「調査」としての真理という真理の分類に注目したい。

4)一八世紀の規律社会の裁判。ベッカリア。監獄の誕生。危険性と行為。パノプティコン。「検査」としての真理。人口統計学。封印状。

5)規律社会とパノプティコン

問い
・後にフーコーは、こうした権力ー知の問題から、明確に「主体の真理との関係」「自己の真理」「キリスト教的修練における真理の実践」へと移行する。この移行をどう捉えるか
・ここではいわゆる「生の権力」もすでに語られている。これをどう位置付けるか。
・制度や技法、行為(真理を現す手続き)の問題。

結論の見通し:
・「オイディプス王」の読解が、権力ー知の問題を、主体の真理の問題へと接続する。
・いわゆる規律=訓練権力において、「行為」の問題がどのように位置付けられているか。

他の参考文献:
『監獄の誕生』『性の歴史』はさておき、「<知への意志>講義」または「言説の秩序」における、真と偽の対立(ゲーム)という考え方は押さえておきたい。そのうえで、他のニーチェ論も併読すれば、「知への意志」の問題が、権力論と真理論の共通の源であることがわかるのではないだろうか。またこれらが「自己の技法」の問題とどうつながるかも解決しなければなるまい。

参考文献:
フーコーの著作、コレージュ・ド・フランス講義のほかに、『オイディプス王』論やニーチェの真理論(ハイデガーとの比較?)なども探索できる。
・彼の後の「真理の体制」という考えを参照すれば、裁判という「制度」と「自己の真理」という考えが連結できないだろうか。
・いわゆる権力諸関係論、権力ー知の問題も、じつは真理の問題や主体の問題を孕んでいることを考えてみたい。フーコーが言うほどには、権力論と主体論はきっぱりと分かれないのだ。後の「統治性」という問題系(自己を導き、他者を導く技法)との関係も考えてみたい。