廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

フーコーの可能性をつぶすいくつかの方法

私はフーコー主義者ではないが、それゆえにフーコーの可能性をつぶすさまざまな言説が気になる。

1)初期のフーコーは完全にメルロ=ポンティの「コピー」とでもいうべき立場であった(ビンスワンガー序文、ゲシュタルトクライス、精神医学とパーソナリティ。。)。ただし心理学の利用を放棄し、歴史性の問題へと足早に移行したこと、それはダイレクトに「制度論」へと向かうことを可能にした(「狂気の歴史」)。だがそれを可能にしたのはフッサールの「幾何学の起源」のメルロ=ポンティ的読解である。デリダ的読解ではない。
2)狂気の歴史の「序文」はほとんどメルロ=ポンティだが、デリダの不毛な介入ゆえ、フーコー構造主義者やエピステモロジーへと近づく身振りをせざるをえなかった。サルトルがジュネを殺したように、デリダフーコーを殺しかけたのである。彼は多くの点でサルトル的殺人を反復している。
 とくに狂気の歴史が反精神医学と混同されたのが彼にとっては悲しい出来事である。しかしフーコーデリダの「秀才」的な身振りなどには殺されはしない。
3)監獄の誕生はそれを引きずってはいるが、「自己規範化」の問題はメルロ=ポンティの制度論の直接の歴史的応用である。「真理の起源」。
4)「精神医学の権力」は反精神医学の歴史的位置付けであり、同時に反精神医学と精神分析への訣別の宣言である。それは制度分析の可能性を、(マルクス主義疎外論から離れられない)トスケイェス、ウリ、ガタリの旧来型の制度論に抗して、それを限界まで引き延ばす試みであり、制度論を理解しないでマルクス主義化するのは誤りである。メルロ=ポンティ制度論を正しく理解したのがフーコーである。
5)フーコードゥルーズに対する誠実さに比べると、ドゥルーズフーコー論は、フーコーを利用した自己アピールにしかみえない。
6)晩年の「自己の技法」の問題について、誰も知ったかぶりをするべきではない。とりわけドゥルーズは完全にポイントをはずしている。
7)まちがってもフーコー的な統治論・制度論を、現代の医療環境の分析に安易に利用してはならない。それは容易に管理強化につながる。フーコーは「ガバナンス」のやりかたをあえて教えている。だから「統治性(この訳はいまいち)」の問題にフーコーを集約したくはない。
8)権力論以降のフーコーの最大の敵はアルチュセールである。
9)「パレーシア」は政治への回帰などではない。むしろ初期の実存分析とメルロ=ポンティ言語論への回帰といったほうがまだ近い。「自己の真理を語ること」についての哲学的考察なしで社会論を語っても意味がない。