フーコーとともに自己への気遣いを問うとしたら、以下のことを念頭においておくこと
1)その気遣いが、「自己認識」とは異なって、どのような自己の変容へと促すものなのか。それが自己が置かれている場そのものの変容をもたらすこと。その場がどのような様態の間主観性(他者たち)と関係するか考えること。
2)気づかいという「行為」ないし「実践」がどのような「危険」を孕んだものであるか考えること。
3)その行為ないし実践が、どのような「真理のゲーム」を発動させるかを考えること。たとえば神や掟などの超越的な存在は括弧に入れたとき、その行為が内在的にどのような意味を持つか考え、そこに「超越」がどのようにかかわるか考えること
4)その行為ないし実践が、たんに「自己」の主観的な意図にかかわるものではなく、「現実態」そのものの構成にどのようにかかわっているか考えること。