廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

木村敏論のためのメモ

木村敏氏の著作をはじめて講義で正面から扱って印象に残ったのは、私の専門ではない精神医学プロパーの議論でも、その哲学的思索そのものでもなく、ひとりの患者を前にして行為する氏のアクチュアリティである。もちろん哲学的思索も刺激的だが、それをドゥルーズなり西田なり、別の思想家と並べてみても、あまり生産的ではないかもしれない。
 ヴァーチャリティであれ、生命論であれ、あくまでひとりの患者が氏を通して語っている経験を経由してから語られており、この緊張関係を無視して概念だけを追ってしまうのは危険である。ましてや「治療」という行為は、患者ごとに異なった形で創出されるべきものであり、安易にマニュアル化されるのはこわいが、木村氏の場合、明確な治療論の不在こそがむしろ、いっけんもっともらしい治療論よりはるかに普遍的なのである。
 というのは、氏の一見思弁的な語りは、患者が氏の身体をとおして自己治療するプロセスの記述であり、それが高度な哲学的概念として結実していたとしても、患者はあたかも自分が語っているように読むことができるだろう。病院の狭い空間でのやりとりであっても、これはどのような反精神医学的活動よりも、精神医学の根拠そのものを掘り崩し続けている「制度化」的実践なのであり、どのような集団治療より、間主観的な経験をもたらしてくれる。臨床哲学とはこのような一見孤独な実践からのみ生まれてくるもので、「現場」とか「日常性」といったマジックワードに解消されるべきものではないし、あらたな学問領域などにとどまるものでもないのである。
 これは氏の「直観」に依存した一代芸にとどまるものと反論する人もいるだろう。だがそのような人は、氏の語りのなかの患者の振るまいと声を聞き取っていない人の言葉であり、それは氏の文章の中で結晶化して残り続けており、そして誰にでも共有可能な経験なのである。
 さらにいうならば、これは氏が精神科医という「立場」に「いる」から可能になったのでもなく、どのような立場にいる人であれ、おのれの中で語る他者には、いまここにおいて、現在のアクチュアリティにおいて、応答可能なはずなのだ。いや「応答可能」などと構える必要もない。氏は語り始めたその瞬間に、意識することなく応答してしまっているというのが本当だろう。そのとき他者の言葉を「分析」する立場はおよそ放棄されている。どのような方法論を弄したとしても、まずはみずからの実践において、他者がすでに語ってしまっているという経験を受け止めることができなければ、それは他者の言葉を代理し、分析をみずから正当化するものにすぎない。本書で木村氏は「他者の死」の経験のアクチュアリティを──ハイデガーを引用する前に──いわば無前提に語る。論理的には一見独断的にみえるが、それは氏の身体における分身のごとき他者の発話なのである。
 このような行為を、あるいは一代芸と言ってもいいのかもしれない。一代芸は別のかたちで反復可能な「術(テクネー)」なのだから。クレーがセザンヌを「反復」したように(続く、かもしれない)