廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

セザンヌの懐疑5 セザンヌの感覚は「ない」

(つづき)
「これまでのことをわたしなりに整理すると、モチーフっていうのは、たとえば林檎が林檎として現れるときに、それを取り巻いている雰囲気みたいなもので、それを「つかま」ないと林檎は林檎として現れない。この雰囲気みたいな全体性と、あるひとつの林檎の現れとのあいだには循環やねじれがあって、それゆえ、絵画は一種の「歪み」をはらむことになる。歪みそのものは「ほとんど」現れないような、かろうじて感知できるものだけけれど、そこに画家の「行為と選択の場」がある。こうしてできる絵画は、たんなる感覚でも概念でもないし、現れでも存在でもない。というか、現れつつある存在の「場」という感じかしらん。」
「よくできました」
「そういう教師くさい言い方はやめてください」
「はい」
「そんなことセザンヌは考えたのかな」
セザンヌの考えではない、私の考えでもない、セザンヌの身体を通して、世界が色彩を使って考えたことを、言語に移すとこういうややこしいことになるというだけだ」
「うー、重いなあ。まあいいや。でも結局のところ、セザンヌの絵画は、セザンヌひとりの感覚やイメージにすぎない、っていう考え方が、完全に反駁されたとは思えないなあ。じっさい描いたのは画家なのだし」
「それは事実なのだ。だがそこには罠がある」
「わな?」」
セザンヌの感覚なるものはない、という罠だ」
「はあ」

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「超越論的主観性とは間主観性である」(メルロ=ポンティ