廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究6

コメントより注目点
・隔離のための輪郭が「多数化する能力をもっている」
感覚の水準の移行→ 「歪形(デフォルメ)」をつかさどる、身体の歪形の動員
・Figureは「全」が規定する(「全」に通ずる)感覚の形体となる。
個対他の対立ではなく、そのフレームから脱出したものを前に己が切り込む
・Figureは独立しながら他と関係する。固定されず移動する。場の中で「何かをしようとしている」
・肉は「あらゆる苦痛を保存し、みずからあらゆる生きた肉体の色彩をもとってきた」重力意識に基づいた垂直感覚的骨と、むしろ散らばり「這い回る肉」と化す肉体の相剋が我々の身体を裏打ち
・「図像の中に時間を注入することが、ベーコンにおける身体の力なのだ」
肉と血
「写真が危険なのは、単に具象的だからではなく、視覚を支配すると主張するからだ」→ 映画的なものに通じるのではないか。トリプティック(三幅対)とトラヴェリング。Cf. 写真美術館「ロスト・ヒューマン展」画面上の出来事のうちりかわりがその写真一枚に凝縮
・作品が作品を越えたところで理解されてはならず、その図像の探究によって規定された事実のみによって世界があらねばならない。
・「まさに図像が、具象的なものと絶縁しようとする意志の確固として持つときでも、実際的な具象を保存することが避けられないことを問題にしている」(p. 57)。
「恐怖より叫びを描きたい」
思考の「型」から抜け出すこと。カオスだとしたら他者に伝達できない。かならず伴う「かたち」から離れようとし、結果としてその行為が社会の「型」をもダイナミックに揺さぶる
・ベーコンとシュルレアリスム
シュルレアリスムは言語的理解を要請する?にもかかわらず残る共通性。
ジャコメッティとベーコン
ジミ・ヘンドリックスとベーコン。「身体の存在があらわになるのは、骨という支えがなくなるとき、肉体が骨を蔽うことをやめるとき、骨と肉体が相対して、骨は身体の物質的構造として、肉体は図像の身体的素材としてたがいに自立して存在するときである」
ジミは音をノイズやアームでゆがめることにより、西洋的隔離から音=図像を解放し、ギター=肉体を破壊する
・ベーコンとピカソ
表情という概念を取り払い、その内側にあるものを見つけようとする。内側=精神、宇宙、無意識、無、内側の苦しみ
・1)器官なき身体における死と生
 2)「画家とはたしかに肉屋にほかならない」悔悛や贖罪を示す紫
 3)「時間」の表現について。縦線によって時間が閉じこめられる。生の解放。時間の力が叫びを終わらせない
・1)「私が感覚において生成変化し、感覚において何かが起こるのは、同時」(53)。「感覚とは、それが林檎の身体であっても、身体の中にあるということ」(53)。判断以前のもの。感覚の変化のなかに私が現れて、私が変化している
 2)「器官なき身体とは、未規定の器官によって定義される」(68)ips細胞のようなもの。「器官を規定するような魂」とそのリズム的統一性。どのような様態で「相即」が行われたかを明らかにする(⇔木村敏
 3)「身体の色彩によって、身体に刻まれる水準が示される」(69)。時間ではなく、「連想」ではないか。余韻。
 4)動物性。無慈悲な死(p. 37)

問題
・Figure(図像、形象)とは何か。カオスと形式。膜としての輪郭(51)
・「肉」と「骨」。力と構築、抽象と具象。
・人間における動物的なもの
・「器官なき身体
・絵画に時間性を導入すること

その他
・「非意味的な筆跡」p. 17
・影(p. 18)と鏡
・ぼかしの手法 p. 19
・身体のdéformation(歪形)p. 22「歪形は静的である」(p. 34)
・「目撃者=証人」の存在。(三枚組みの構成)
・身体の身体に対する力:収縮と拡大。
・「宇宙的散逸」と知覚し得ないもの(47)
・「絵におけるあらゆる運動の共存とはリズムのことである」(51)
・ベーコンとセザンヌ
・「唯一の同じ感覚に属するもろもろの秩序」「構成的水準の差異」(56)
・「感覚の暴力」(58)
・運動の問題(61)その場での運動。「身体に対する不可視の力の作用」(61)
・「リズムそれ自身がカオスの中に、闇の中に潜り込む。水準の差異が撹乱」(64)