廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

三つの自己の技法:書簡、良心の検討、アスケーシス、夢解釈

・三つの自己の技法:書簡、良心の検討、アスケーシス、夢解釈

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・アスケーシス:
自己放棄やその現実の放棄ではなく、世界の現実を、此岸において獲得すること→ 獲得した真理を永続的な原理に変換 →準備したもの(パラスケウエー)を試練にかける → エートスがアレーテイア、アレーテイアがエートス

メレテー、メディタティオー
「災悪の予期」(praemeditatio malorum)
1)蓋然的なことが確実に起こる
2)現実的に進行中
3)未来と現在の「同時性」(メルロ=ポンティ
未来の廃棄(『主体の解釈学』)

グムナイゼイン(現実の鍛錬)
・絶食

中間形態
両替商:ある考えが浮かぶとただちに評価(⇔キリスト教のカッシアヌス。悪魔がいないか)。

永続的な自己検証。過去に獲得した真理 + 未来を現在に現実的に生きること。


夢解釈(アルテミドロス)『夢を解く鍵』については『性の歴史 2、自己への配慮』の冒頭を参照。

まとめと問題提起
ストア派の自己への技法において、キリスト教にも精神分析にもあてはまらない要素は何か。

・既成の真理の獲得と未来への「構え」という二重の実践、これはどういう時間的な経験だろうか。

・死の訓練はアスケーシスのひとつの形態にすぎないとも考えられる。ハイデガーの「死に臨む存在」を意識しているか。
cf. ハイデガー存在と時間』、デリダ『アデュー』(レヴィナス論)。

ポイント:
フーコーストア派において見て取っているのは、
1)内在的(彼岸を想定しない)だが、世界の「現実性(réalité)」との関係を持っている。
2)真理の獲得であると同時に現実の行為における訓練。
アレーテイアとエートスの一体化。
3)「現在」というプロセス。過去(師)の掟に対する受動性と未来の偶然性のあいだを行為的に生きること。cf. カントはフランス革命を現在の「記号=表徴」として解読する。「啓蒙とは何か」(『フーコー・コレクション6』

応用的な問題提起:
・現代において、自己のたえざる検討は、キリスト教精神分析を通過しながらも、ストア派的な「現在主義」の再評価をも備えているように思われる。そのような時代において、いかなる自己の技法が課せられているか、自己の変容のために、いかなる自己の技法を発明すべきか。

・メディア的技法の評価。「ポストモダン」的な自己の否定ではなく、技術=技法を介した自己との関係。技術の発明=自己の発明であるような関係性。

・他者の位置付け。私的なものと公的なものの区別、<自己に固有なもの>と<他者との関係>の関係。
→ 次節における「告白」「告解」「悔悛」つまり「自己の真理について語ること」をどう扱うかに関係する?